浄土真宗とは何か - 親鸞の教えとその系譜 (中公新書) の感想

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タイトル浄土真宗とは何か - 親鸞の教えとその系譜 (中公新書)
発売日販売日未定
製作者小山 聡子
販売元中央公論新社
JANコード9784121024169
カテゴリ人文・思想 » 宗教 » 仏教 » 仏教入門

購入者の感想

 うーむ、確かに、浄土真宗についての基礎的、歴史的な知識についてはおさえられており、浄土真宗の歴史書としてはいい本だと思う。だけど、だけど、私も真宗門徒の端くれとして言いたいのだが、親鸞の思想の最も大事なところが書かれていないと思う。
 著者は、親鸞及び、その後継者たちが、その著述の中で否定している自力の行為、阿弥陀如来以外の神仏への現世利益てきな礼拝、臨終行儀などを、結局行っていることを指摘し、他力の困難さ強調する。でも私からすれば、そんなことはあまり重要なことではなく、それもこれも皆煩悩のなせるわざ、親鸞も含めて、我ら人間は誰も煩悩から逃れるすべを持たない。阿弥陀如来はそんなことは全てお見通しで、そんな我らだかろこそ、18番目の大悲の誓願で、我らを救おうと決意なさっている。それを我らは感謝しなければならない。親鸞の思想、いや阿弥陀如来はそういう矛盾と割り切れなさを、そのまま、ありのままに受け入れて下さる。そういう懐の深さを持っていると思う。
 さらに、これも私の考えだが、親鸞は、そういう自力の行為は「必要ではない、」と言ったが、「してはいけない」と言って、決して禁止しているわけではないと思う。親鸞は人間の煩悩の断ち切り難さをよく知っており、必要のないことであるが、それで心の安寧が得られるのであれば、やむを得ないと考えていたのではないだろうか。重要なことは、そういう自力の行為を行うことによって、それが報われることが当然だと考えること、これだけ念仏したのだから、極楽往生は当然だ、これだけお布施をしたのだから、お寺から大事に扱われるべきだ、等々、それは人間の傲慢さで、それこそが自力の思想で、深く戒められなければならないと考える。人間の行為など、如来の広大無辺の大悲の前には取るに足らない無力なものである。そういう無力さを深く理解し、仏の前に謙虚になることこそ、他力の思想の中心部分だと思う。そういう行為(臨終行儀、他の神仏礼拝、布施等々)そのものを禁止していたならば、親鸞の思想はとっくに弾圧され、親鸞は特異な思想を持った僧として歴史の片隅の中で埋もれていたことであろう。

親鸞とその親族や弟子たちの信仰の実態について、とてもわかりやすく論じた本です。宗派の人々が夢想する理念化された祖師像や、知識人好みの近代的な親鸞像を脇に追いやり、あくまでも中世人としての親鸞を理解するため、この偉大な僧侶と、彼の周囲の人々をめぐる文献や資料を、丁寧に読み解いています。
呪術的な実践が「常識」のように行われ、幸福な来世のために死に際の作法が重要な意味をもった中世の世界観は、法然や親鸞や、その周囲の人々にも程度の差はあれ広く受容されていました。法然は、呪術を否定しながらも完全に切り捨てることはなく、呪術の要請には気前よく応じました。親鸞の妻の恵心尼は、自身の往生を確実にするために五輪塔の建立に奔走し、死装束へのこだわりを隠しませんでした。阿弥陀如来への信仰のみでは安心できず、今で言う「終活」に必死だったのです。蓮如は自力信仰には否定的でしたが、一方で信仰がもたらす現世利益を説くことには積極的でした。他力本願や極楽往生を語るだけでは、信徒がついてこなかったのです。
親鸞という人は、こうした世界観がノーマルな時代において、苦闘の末に絶対他力に到達し、呪術からも死に際の作法からも自由になりました。とはいえ、彼が残した言葉には、しばしば一貫性に欠ける部分もあり、高僧の臨終時の奇跡などを称賛したりしてしまっています。彼ですらそうなのですから、彼ほど強靱な批判精神のない人々が、呪術的な発想を当たり前のように受け入れてしまうのも、無理もありません。
親鸞の教えと、それに感化されながら生きた人々によって担われた浄土真宗とは、中世宗教としての側面を色濃くそなえつつ、なおそこから飛翔するオリジナリティをもった、独特の日本仏教でありました。そのような厚みのある歴史的事実を、本書からは気軽に知ることができ、とてもありがたいことです。

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