究極的には、宇多田ヒカルが唯一の読者として想定された稀有なノンフィクション

表紙に花が一輪描かれているように、
沢木耕太郎の藤圭子に対する深い哀悼の意味がこの本には込められている（以下、
敬称略）。

マスメディアで流布されている「精神を病み、
永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」というイメージに対して、
藤圭子の実像を伝えたいという意図も強く感じられる。


同時に、
「後記」で書かれているニュアンスから察するに、
究極的な意味では、
沢木がこの本の読者として想定しているのは、
宇多田ヒカルただ一人だと思う。

藤圭子自死後の宇多田ヒカルのコメントにある、
「幼い頃から、
母の病気（精神的な）が進行していくのをみていました」という一文に、
沢木は強く反応する。

宇多田ヒカルは、
藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したのではないか。

宇多田ヒカルに、
宇多田ヒカルが知らない28歳の藤圭子と会わせてあげたい、
これが、
一度は「永遠に葬ること」を決意していたこの作品の出版を沢木が決断した決定的な要因だと思う。


沢木の言葉でいえばその時の藤圭子の精神は「水晶のような硬質で透明な精神」であったという。

インタビューが行われたのは、
1979年末。

沢木は31歳、
藤圭子は28歳。

この作品では、
通常のノンフィクションと異なり、
会話以外の説明や叙述が一切なく、
極めて実験的な作品になっている。

藤圭子が10年間の歌手活動を終え、
芸能界をまさに今引退する時期のインタビューであり、
主題は、
引退の理由である。

引退の理由、
その他人生観をめぐって、
若き沢木と若き藤圭子との酒を傾けながらの対話が続く。

同世代でありながら家庭環境は全く異なる二人が、
時に共感しあい、
時に見解が相違しつつ、
互いを認めあい、
相互理解を深めていく。

その過程で、
28歳の藤圭子の「水晶のような硬質で透明な精神」が読者にじわりじわりと伝わってくる。

二人の会話しかなく、
二人の容姿・仕草、
二人がいる場所の背景がほぼすべて捨象されているからこそ、
藤圭子の精神が鮮やかに読者の脳裏に焼き付けられる。


沢木は、
藤圭子自死のタイミングを狙ってこの本を出版して、
話題を集めようとしたのか。

断じて違う。