イデーン―純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 (1-2) の感想

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参照データ

タイトルイデーン―純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 (1-2)
発売日販売日未定
製作者E.フッサール
販売元みすず書房
JANコード9784622019176
カテゴリ人文・思想 » 哲学・思想 » 西洋思想 » ドイツ・オーストリア

購入者の感想

そもそもなぜ現象学などという名前がついているのかがそもそも分からないという人が多いのではないかと思うのですが、最近、まだ何となくというレベルですが分かるようになりました。

ハイデッガーの『存在と時間』第2章第13節から

『・・・いかにして認識作用は、その内面圏域から「外へ」と出てゆき、何らかの「超越」を獲得するのかという問いしか設定されていないかぎり(*カント的認識論)、明らかになってくるのは、ひとは認識作用を問題として認めていながら、そうした謎を課するこの認識作用が、そもそもどのように存在しているのか、また何であるのかを、あらかじめ明瞭にしておいてはいないということ、このことである。
このように発端をおくのでは、ひとは、認識現象がこのうえなく暫定的に主題化されるときでも、それといっしょにすでに表立たずに主張されている次のことに対して、あくまでも盲目である。すなわちそのこととは、認識作用は世界内存在としての現存在の一つの存在様態なのであり、おのれの存在的基礎をこの存在機構のうちにもっているのだということ、これである。この現象的実状を―認識作用は世界内存在の一つの存在様式であるということ―このように指示すれば、ひとは次のように異論をとなえるかもしれない、・・・・』

普通の認識論は、認識作用は人間の他の存在様態(たとえば欲求)とは全然違う特別な一つという前提でするものですが、ハイデッガーが言うのは、他のいくつかの存在様式の中の、あくまで一つとして、認識作用が何なのかを考えるということだと思います。
ニーチェの『善悪の彼岸』にも、『さらば私は、「認識への衝動」が哲学の父である、とは信じない。むしろ信じる、―1つの他の衝動が、他の場合と同じくここでもまた、認識を(そして誤認をも!)ただ道具として使役しているのだ、と。』という部分があることを僕はレビューで書きました。

そこで、この本の第3章第96節 「後続する諸章への橋渡し。結語」から、ちょっと長いですけど

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