モーセと一神教 (ちくま学芸文庫) の感想

アマゾンで購入する

参照データ

タイトルモーセと一神教 (ちくま学芸文庫)
発売日販売日未定
製作者ジークムント フロイト
販売元筑摩書房
JANコード9784480087935
カテゴリ »  » ジャンル別 » 文学・評論

購入者の感想

要約:嘘とも真実とも言えない言葉たちを通して、「真実」を見いだせたと思い込む人々が大量にいる事の証左を、そうした嘘とも真実とも言えない物語作りで生涯をかけたフロイトの物語。その構造が精神分析での事例と共にフロイド全集などから読みとれる。この思い付き話をかってに真実と思い込む人々がおり、かつ彼らは大きな感銘をそこで受けてしまうと言う事態に感心してしまう。そうした好奇心は歴史家(とりわけ古代史の)の好奇心に重なるのかも。
まとめて言えば、事実として確証できない状況を物語で信じ込もうとする人々とその物語作りを支援する精神分析系思索の物語だと言える。事実として確証できない対象を、最初から、確証できもしないという事を前面に出してしまうと、最初から何一つ進まないし、思索を続ける意欲さえ失われるので、何かが事実を「思い出すことを妨害している」と言う話から始める。そうすることで、その「妨害している対象」を見出す事への意欲を低減させないようにする。そしてその「妨害力」を動かしているものの影から見えたものがあると、そこで見えたものがいつの間にか「事実である」かのごとくに信じてしまう人間たちが出てくる。彼らはもともと、そうしたものの影から見えた対象が事実である確証がないことさえ忘れてしまう。

以下、詳細。
まず、この書物では「神経症」と言う言葉が何度も出てくるが、この言葉が出てきているとしても、それが特定の神経回路と関係があることを見いだされたわけでもない。精神分析系医療では、病気か病気でないかの閾値(しきいち)がない。悩みがありますと言えば、精神分析的医療が始まるのだ。言い換えれば、悩みがあると患者側が考える事、これが「精神分析的医療における神経症」だと言う事を理解して読む必要がある。
フロイトが「精神分析」でやっていた「精神」問題の構造が、それまでは個人の思い出しがたい過去を、ある意味、思い出させることで患者の心理的満足感を与えるという心理的活動であったのだが、それをもっと広い範囲で行った書物だと理解できた。

 精神分析学の祖であるジークムント・フロイトが死の直前ごろに書いた本である。フロイト自身はユダヤ教徒の家に育ったが(ちなみに本人は宗教に対しては否定的)、ユダヤ人にとっての大英雄ともいえる、アンタッチャブルな「モーセ」に切り込んでいく。
 フロイトの立論によれば・・・「モーセ」は生粋のエジプト人だった(のではないか)。そして、彼はイクナートンが太陽神アトンを唯一神とした「アマルナ宗教改革」の信奉者だった(のではないか)。アトン神信仰は、イクナートンの死後、旧来の神官たちの巻き返しですっかり排斥されるのだが、アトン神信仰の重要観念である「一神教」は、ユダヤ教のベースになっている。おそらく国境地域の総督だったモーセは、エジプトで一神教がすたれたのに絶望し、異民族(セム系民族)に一神教の観念を与えた上で、エジプトの慣習である「割礼」を与えることにより、この民族を聖別し、これが「ユダヤ人」となった・・・というすごい推理をしている。更に、ユダヤ人によるモーセ殺害論とか、キリスト教とは「息子(イエス)が父(ヤハウェ神?)にとってかわるという典型を示す宗教である」とか、当時の時代とフロイトの名声を考えるとかなり思い切ったことを書いている。
 フロイトは、集団記憶の存在を前提にしている。民族の記憶(特にうしろめたい記憶)の継承を前提としたとき、モーセのあたえた一神教という高度に精神的な概念と選民という高揚感がユダヤの深層に残り続ける、というのはありえるのだろうか。

 1939年に発表されたフロイトの宗教論・文化論についての論文である。精

神分析は神経症の治療技法として創出されたが、人間理解の方法として宗教

や文化の解釈と再構成にも利用されることがある。本論文はその一つである。

 本書は精神分析的な視点からユダヤ教の成立史やモーセの出エジプトにつ

いて論じている。着想は独特であるが、現代的な歴史学や宗教学からは「事

実に即していない」ということであまり取り上げられることは少ないようで

ある。僕も詳しくないが、多分フロイトの言っていることは「歴史的事実」

としては間違っているのだろうとは思う。

 しかし、本書を単なる歴史書や宗教書として見ると、その価値はあまりな

いように思うが、視点を変えて臨床のモチーフやメタファーとしてみるとま

た違った色合いが見えてくるように思う。

 例えば、「モーセ、ひとりのエジプト人」や「もしもモーセがひとりのエ

ジプト人であったとするならば・・・」などの章では、モーセの名の由来や

出生についての探索が行われている。これは臨床の中で言えば、治療者が患

者の生育歴や早期外傷体験の探索・想起などを行っているところが目に浮か

んでくる。患者の語られる材料をもとに、自由連想を駆使し、一つ一つ確か

めていく。これはきわめて臨床的なことである。

 また、モーセという人物を実在のものとせず、心的内容物のある象徴とし

て見て、ユダヤ教をスクリーンとして、そこに一人の人間の無意識や乳幼児

体験を写しだすことができているように思える。宗教における戒律や取り決

めは個人の超自我に当たるだろ。

 すなわち、フロイトはモーセやユダヤ教の分析を行っているように見えて

、それはメタファーとしてフロイトの臨床や分析技法を書き記していると理

あなたの感想と評価

コメント欄

関連商品の価格と中古

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

アマゾンで購入する
筑摩書房から発売されたジークムント フロイトのモーセと一神教 (ちくま学芸文庫)(JAN:9784480087935)の感想と評価
2017 - copyright© みんこみゅ - アマゾン商品の感想と評価 all rights reserved.