異形の日本人 (新潮新書) の感想
参照データ
タイトル | 異形の日本人 (新潮新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 上原 善広 |
販売元 | 新潮社 |
JANコード | 9784106103872 |
カテゴリ | » 本 » ジャンル別 » ノンフィクション |
購入者の感想
テーマも取材時期もバラバラなルボルタージュのオムニバスなので、全体のまとまりには欠ける。その中で私が最も惹かれたのは、第一章の「ターザン姉妹」のエピソードだった。
知的障害を(?)持って生まれた彼女たちは、それでも、10代半ばを過ぎるまでは、鹿児島の山村で特段の不自由もなく、村人の日常に溶け込んで、平和のうちに暮らしていた。もちろん、他の村人たちと多少は違うところもあったのだろうけれども、彼女たちだけが特に「異形のもの」として、村人の日常から否定される存在ではなかった。「村の子供たちも…(中略)…みんな面白がって、一緒になって姉妹と遊んでいましたよ」という証言が、そのことを裏付けている。
ところがその彼女たちを、近親婚の結果としての“先祖返り”ではないかと「疑った」精神科の医師と東大の研究者たちとの侵入によって、それまでは何の問題もなく円満に維持されていた村人たちのコミュニティの状況は一変する。あらかじめ予見を持った“外部”が、彼女たちの存在をより広い“外の社会”へと曝け出してしまったことによっていつしか、彼女たちは、村人たちにとっても、その存在自体を強く否定しなければならない禁忌へと変貌してしまうのである。
生まれ育った村落共同体の中で、その成員の一部として存在を認められていた姉妹は、精神科医師や東大の研究者、あるいは、それに連なるマスコミという“外部”の侵入によって、同じ共同体の成員自らの手で、“排除”されてしまった。
私はここに、“差別”が誕生する瞬間の、その根源的なメカニズムを垣間見る気がする。
そしてこのルポルタージュの特異な部分は、これまではずっと部落問題を中心に“差別される側”に寄り添って来たはずの著者自身が、ここでは他でもない、彼女たちを産み育てた村落共同体に侵入する“外部”として、差別の再生産に加担してしまったことにある。著者は姉妹との血縁関係を疑わせる老人に出会うが、彼に姉妹の消息を尋ねることを躊躇ってしまう。その瞬間に著者は(おそらくそれは本人の意図せざるものであったに違いないが)確かに自分自身が、差別される側から、差別する側に立ってしまっていたことに気づくのである。
知的障害を(?)持って生まれた彼女たちは、それでも、10代半ばを過ぎるまでは、鹿児島の山村で特段の不自由もなく、村人の日常に溶け込んで、平和のうちに暮らしていた。もちろん、他の村人たちと多少は違うところもあったのだろうけれども、彼女たちだけが特に「異形のもの」として、村人の日常から否定される存在ではなかった。「村の子供たちも…(中略)…みんな面白がって、一緒になって姉妹と遊んでいましたよ」という証言が、そのことを裏付けている。
ところがその彼女たちを、近親婚の結果としての“先祖返り”ではないかと「疑った」精神科の医師と東大の研究者たちとの侵入によって、それまでは何の問題もなく円満に維持されていた村人たちのコミュニティの状況は一変する。あらかじめ予見を持った“外部”が、彼女たちの存在をより広い“外の社会”へと曝け出してしまったことによっていつしか、彼女たちは、村人たちにとっても、その存在自体を強く否定しなければならない禁忌へと変貌してしまうのである。
生まれ育った村落共同体の中で、その成員の一部として存在を認められていた姉妹は、精神科医師や東大の研究者、あるいは、それに連なるマスコミという“外部”の侵入によって、同じ共同体の成員自らの手で、“排除”されてしまった。
私はここに、“差別”が誕生する瞬間の、その根源的なメカニズムを垣間見る気がする。
そしてこのルポルタージュの特異な部分は、これまではずっと部落問題を中心に“差別される側”に寄り添って来たはずの著者自身が、ここでは他でもない、彼女たちを産み育てた村落共同体に侵入する“外部”として、差別の再生産に加担してしまったことにある。著者は姉妹との血縁関係を疑わせる老人に出会うが、彼に姉妹の消息を尋ねることを躊躇ってしまう。その瞬間に著者は(おそらくそれは本人の意図せざるものであったに違いないが)確かに自分自身が、差別される側から、差別する側に立ってしまっていたことに気づくのである。