ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書) の感想

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参照データ

タイトルドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)
発売日販売日未定
製作者國分 功一郎
販売元岩波書店
JANコード9784000291019
カテゴリ人文・思想 » 哲学・思想 » 西洋思想 » 西洋哲学入門

購入者の感想

哲学関連書に珍しい丁寧な語り口が特徴の國分ですが、
難解と言われるドゥルーズでも見事にそのスタンスを貫いてくれました。

思考の切れ味には不満がないこともないのですが、
丁寧な説明で読者を置いてけぼりにしない努力は、
つまらない発想で偉そうにされるよりは、ずっと大人な態度に思えます。

ざっと諸兄のレビューを見回したところ、
この本のテーマについてあまり語られていないように見受けられたので、
そこに触れておきたいと思います。

序文に書かれているとおり、
この本にはドゥルーズの思想について國分なりの探究があります。
それは「ドゥルーズ思想は政治的なのか否か?」という問題です。

ドゥルーズの思想が政治的に受容されている(ネグリなどが代表)一方で、
その非政治性への批判(ジジェクやバディウなど)が行われているのなぜなのか?

國分はドゥルーズ単独とガタリとの共著に線引きをし、
たしかにドゥルーズ単独では政治性は薄いが、
その欠点を乗り越えようとしてガタリとの共著というスタイルを取ったとするのです。

この説明には納得しました。
まあ、ガタリが政治的なだけなんじゃないの、と言えなくもないのが難点ですが(笑)

第5章がドゥルーズ=ガタリの政治性についての考察に当てられています。
ここではフーコーの権力論を「欲望」によって読み替える試みがなされますが、
あまりにフーコーに依るところが大きく、
ドゥルーズ=ガタリ自身の政治性はイマイチ実感できませんでした。

「欲望」によって人々が権力に自発的に隷属していると言われても、
その認識だけでは政治的にはなりえません。

僕はネグリをアカデミックな毒に当てられた世間知らずだとレビューに書いて、
さんざんな評価を受けていますが、
欲望による権力の解体は、完全に解体すると解体後の無秩序を招くため、
権力を解体しきらずに擾乱する程度の効果しか発揮できない、

ドゥルーズの定義する哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野でえある。自然主義を根幹とするドゥルーズの立ち位置と、自由間接話法という独特の方法について解説されている第1章。ヒュームとカントを引きながらドゥルーズを超越論的観念論に位置づける第2章。そして、第3章では、思考は意思によってではなく、強制によって行われるというドゥルーズの考えからと主体性概念が示される。ここに、ドゥルーズが思考の次元から行為の次元へと進むことの必然性が見てとれる。これが、一人のドゥルーズからドゥルーズ=ガタリへという転回の理由なのだ。

第4章は、「アンチ・オイディプス」(1972)を中心に書かれている。ドゥルーズ=ガタリがファルス(男根)の欠如によって欲望を説明する構造主義的なパースペクティブから脱却し、政治経済学的視点と融合することで、真の政治哲学の視座が復活したのだと國分はいう。

第5章は圧巻だ。フーコーが「知への意思」で示した権力論の頂点に対し、ドゥルーズがフーコーに宛てた手紙がある。(欲望と快楽、1977)この中でドゥルーズはフーコーの理論は袋小路であると指摘し、新しい戦略を示唆した。これは「千のプラトー」(1980)の主題と重なる。フーコーのように、権力を抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式で見ている限り、この構図から抜け出すことはできない。これがフーコーの権力論の陥った袋小路だ。これに対してドゥルーズ=ガタリはかつてスピノザが提示した質問を呼び出す。それは「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」という問題だ。そして、人々の欲望アレンジメントを前提として、それに対応する権力様式が生じるのだとする解釈を提示し、権力に対する欲望の優位を主張する。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐えている。それこそが一つの欲望のアレンジメントだ。もっとも、「千のプラトー」は権力装置の分析に重点が置かれた書物ではあるのだが。

「ドゥルーズを何度も読んできたけど、いまいち理解が進まない」という人にとっては、本当にわかりやすい一冊。

ドゥルーズに関連してヒュームの連合説を説明する時でも、凄く丁寧なんだよね。決してはしょらない。
そして、説明の中に具体性を入れてくれる。

研究者の説明は、高度な抽象レベルのまま進んでしまって、「なんだかよくわからない」ということが多いけど、本書ではそういうことがない。

難しい言葉に置き換えている時も、かっこで元の意味を記して、ドゥルーズに遭難しかけている人がついてこられるようにケアーをしてくれたりする。

たとえば、ドゥルーズの用語で、思考のイメージとか内在平面とか分析平面いうものがある。
平面?
なんじゃそりゃって感じだけど、國府氏はこう説明する。

まず、思考のイメージについて。

《彼らは哲学者が語ったことしか読まない。そして、哲学者の思考は哲学者の意識のコントロール下にあると考えている。しかし、哲学者の思考は哲学者の意識を超え出ている。
 哲学者の意識を超えるものとしての思考、つまり、語られたこととは別に捉えられうる、語られたこと以上のものを含み、語られたこと以前に位置するものとしての思考――ドゥルーズはそれを一つのイメージとして捉え、「思考のイメージ」と呼んでいる》

それから、しばらく後で内在平面について、「思考のイメージは、晩年の『哲学とは何か)1991年)では「内在平面」とも呼ばれるようになり」》って書いている。

ついていけるでしょ?
さらに分析平面については、

《「分析平面」は、これ以後は使われなくなる言葉だが、「内在平面」に相当するものと考えて間違いないだろう(おそらく、ここで平面という形象は、哲学史を一本の直線として捉えることを避けるために導入されている)》

かっこの中がポイントね。「おそらく、ここで」というくだりがあるおかげで「平面」というドゥルーズの言い回しに「ああ、なるほど」ってうなずけちゃうんだよね。

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