漫画家ママの うちの子はADHD (こころライブラリー) の感想
参照データ
タイトル | 漫画家ママの うちの子はADHD (こころライブラリー) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | かなしろにゃんこ。 |
販売元 | 講談社 |
JANコード | 9784062594950 |
カテゴリ | ジャンル別 » 人文・思想 » 教育学 » 一般 |
購入者の感想
ADHDのリュウ太くんを子供に持つ母親かなしろさんの、子育て奮闘マンガです。
リュウ太くんは忘れ物が多かったり落ち着きがなかったり、
学校でしょっちゅう問題行動を起こしたり。
母親はそれを「愛情が足りないせいかしら」「しつけがたりなかったのかな」と思い悩む。
ある日リュウ太くんがADHDとの診断され、しつけのせいではなかったことに心が軽くなり、
作者がADHD児への接し方を学ぶことで、当事者のリュウ太くんも変化しはじめる…といった内容で、
ADHD児の親の気持ちの変化がメインに描かれています。
ADHDを全く知らないADHD児の親にとっては発見が多く、
子供がADHDかもしれないと悩んでいる親にとっては救いの一冊となりそうです。
反対に既に大人になったADHD当事者に読んだ感想を聞いたところ、
リュウ太くんと比べて社会に理解されなかった自分の子供の頃を思い出し悲しくなった、
とのこと。
尚、ADHDについての詳しい説明はあまり記載されておらず
(後半の田中教授の解説で少しフォローされていますが)
マンガの方はリュウ太くんがADHDだと理解したところでほぼ終わっているため、
ADHDを既に知っている人、具体的な接し方が知りたい人等は他の本をおすすめします。
リュウ太くんは忘れ物が多かったり落ち着きがなかったり、
学校でしょっちゅう問題行動を起こしたり。
母親はそれを「愛情が足りないせいかしら」「しつけがたりなかったのかな」と思い悩む。
ある日リュウ太くんがADHDとの診断され、しつけのせいではなかったことに心が軽くなり、
作者がADHD児への接し方を学ぶことで、当事者のリュウ太くんも変化しはじめる…といった内容で、
ADHD児の親の気持ちの変化がメインに描かれています。
ADHDを全く知らないADHD児の親にとっては発見が多く、
子供がADHDかもしれないと悩んでいる親にとっては救いの一冊となりそうです。
反対に既に大人になったADHD当事者に読んだ感想を聞いたところ、
リュウ太くんと比べて社会に理解されなかった自分の子供の頃を思い出し悲しくなった、
とのこと。
尚、ADHDについての詳しい説明はあまり記載されておらず
(後半の田中教授の解説で少しフォローされていますが)
マンガの方はリュウ太くんがADHDだと理解したところでほぼ終わっているため、
ADHDを既に知っている人、具体的な接し方が知りたい人等は他の本をおすすめします。
夫婦で繰り返して読んだ。ツレは読むたびに泣いていた。
集団生活の中で、周囲に迷惑をかけまくりな男の子。多くは、わが子が加害者の立ち位置になってしまう。逃げ出したくなっても不思議ではない状況だ。
非難されることがわかっている相手の所に謝りにゆく。担任に負担をかけていることがわかれば頭を下げる・・・こういう常人ならばとても精神的に耐えられないような事態に、著者は一つずつ向かい合ってゆく。苦しみの原因を誰かに責任転嫁して自分は非難する側に回れば気持ちは楽になるかも知れない。だが、それを絶対にやらないところが、この著者のすごいところだ。夫はすんなり協力体制になってくれるわけではないが、そこでも配偶者を一方的に非難することはしていない。配偶者が息子にプラスに働いているところもちゃんと評価しようとする。もし著者が、誰かを非難して自分は楽な所にさっと逃げていれば、この男の子もうまくいかずに終わっていたかも知れない。母親の人間性が、子供だけではなく、家族全体を守っている。
著者は、問題が起こるたびに自分の息子との関係に吟味を加える。「なぜ、こんなことをするのか」と息子に叱責になるのは、自然な親心だ。だが、必ずその後で、「もっと理解してやらなければ」と振り子を逆に振る。この揺れ動く心が感動的だ。
息子の問題を、はっきり「障害なのだ」と言い切り、ADHD独自のアプローチへと切り替えてゆく。ここでキレイゴトを一切言わないところが「よくぞ言ってくれました」と思った。子供に障害があるという事実を文学的に美化するような当事者本に違和感をずっと感じてきたところだ。「障害」と割り切って合理的なアプローチをするという著者のような姿勢は、一つの模範として位置づけられるべきではないのだろうか。
最後に著者がやっとPTAなどに参加できるような余裕が出てきたことが書かれているが、読者はここに、それまで著者がどれほど深い孤立に置かれていたかに思いをはせるべきではないだろうか。障害児の親の社会的孤立を描いているという点もこの本の出色の価値だ。優しく読みやすいように見えて、伝わってくるものは重大だ。一人でも多くの人にこの本を手にとってほしいと願う。
集団生活の中で、周囲に迷惑をかけまくりな男の子。多くは、わが子が加害者の立ち位置になってしまう。逃げ出したくなっても不思議ではない状況だ。
非難されることがわかっている相手の所に謝りにゆく。担任に負担をかけていることがわかれば頭を下げる・・・こういう常人ならばとても精神的に耐えられないような事態に、著者は一つずつ向かい合ってゆく。苦しみの原因を誰かに責任転嫁して自分は非難する側に回れば気持ちは楽になるかも知れない。だが、それを絶対にやらないところが、この著者のすごいところだ。夫はすんなり協力体制になってくれるわけではないが、そこでも配偶者を一方的に非難することはしていない。配偶者が息子にプラスに働いているところもちゃんと評価しようとする。もし著者が、誰かを非難して自分は楽な所にさっと逃げていれば、この男の子もうまくいかずに終わっていたかも知れない。母親の人間性が、子供だけではなく、家族全体を守っている。
著者は、問題が起こるたびに自分の息子との関係に吟味を加える。「なぜ、こんなことをするのか」と息子に叱責になるのは、自然な親心だ。だが、必ずその後で、「もっと理解してやらなければ」と振り子を逆に振る。この揺れ動く心が感動的だ。
息子の問題を、はっきり「障害なのだ」と言い切り、ADHD独自のアプローチへと切り替えてゆく。ここでキレイゴトを一切言わないところが「よくぞ言ってくれました」と思った。子供に障害があるという事実を文学的に美化するような当事者本に違和感をずっと感じてきたところだ。「障害」と割り切って合理的なアプローチをするという著者のような姿勢は、一つの模範として位置づけられるべきではないのだろうか。
最後に著者がやっとPTAなどに参加できるような余裕が出てきたことが書かれているが、読者はここに、それまで著者がどれほど深い孤立に置かれていたかに思いをはせるべきではないだろうか。障害児の親の社会的孤立を描いているという点もこの本の出色の価値だ。優しく読みやすいように見えて、伝わってくるものは重大だ。一人でも多くの人にこの本を手にとってほしいと願う。