どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ) の感想
参照データ
タイトル | どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 苫野 一徳 |
販売元 | 講談社 |
JANコード | 9784062585095 |
カテゴリ | ジャンル別 » 人文・思想 » 教育学 » 一般 |
購入者の感想
公教育の正当性について正面から答えようとする試み。人間の欲望の本質は「自由」の欲望であり、公教育はこの「自由」の欲望の社会的な展開に位置づけられるときに正当であるといえる。したがって公教育は、個人が社会で自由に(放埒に、ではなく)生きていくための「教養」(能力?)を身につけるように、また社会における「自由の相互承認」を現実化するように方向づけられていなければ、正当であるとはいえない。これがおそらく著者の主張のポイントのようだ。
この主張に反対することは一見簡単かもしれない。「こんな教育構想なんてありえない。現実性がない」などのレベルの批判であれば、いくらでも可能だろう。確かに実現可能性についてはいまだ推し量れない部分があることは否めない。しかし著者の提示する教育原理それ自体に真正面から反対することは、実はかなり難しい気がする。たとえば、「公教育は個人を社会に隷従させるときに正当である」という主張に納得する人がどれだけいるだろうか。「公教育は各人の自由を抑圧し社会全体の効率を向上させるときに正当性をもつ」という主張が、果たしてどれだけの普遍性を持つだろうか。
自由と相容れない教育が不当であるという感覚は、私たちのうちにいわば当たり前のものとして暗黙のうちに根づいている。この「当たり前」を徹底的に意識化し問い直すことを通じて、著者は、この水準であれば誰もがよいと言うことのできる公教育の「方針」を提案している。
著者が言うように、公教育は誰もが受けるものだけに、多様な教育像が成立するという性質をもっている。しかしそのことは、公教育の“絶対的な真理”が失われてもなお、どのような公教育が「よい」ものかについての共通の認識が私たちの間で成立する可能性があることを示してもいる。公教育のあるべき姿が見えにくくなっている今だからこそ、冷静にそして理性的に、どのような公教育であれば誰もが「よい」と言えるのかを考えあう必要に迫られている。本書はそうした問題意識に貫かれた著作として、読者による吟味と検証を待ち望んでいる。
この主張に反対することは一見簡単かもしれない。「こんな教育構想なんてありえない。現実性がない」などのレベルの批判であれば、いくらでも可能だろう。確かに実現可能性についてはいまだ推し量れない部分があることは否めない。しかし著者の提示する教育原理それ自体に真正面から反対することは、実はかなり難しい気がする。たとえば、「公教育は個人を社会に隷従させるときに正当である」という主張に納得する人がどれだけいるだろうか。「公教育は各人の自由を抑圧し社会全体の効率を向上させるときに正当性をもつ」という主張が、果たしてどれだけの普遍性を持つだろうか。
自由と相容れない教育が不当であるという感覚は、私たちのうちにいわば当たり前のものとして暗黙のうちに根づいている。この「当たり前」を徹底的に意識化し問い直すことを通じて、著者は、この水準であれば誰もがよいと言うことのできる公教育の「方針」を提案している。
著者が言うように、公教育は誰もが受けるものだけに、多様な教育像が成立するという性質をもっている。しかしそのことは、公教育の“絶対的な真理”が失われてもなお、どのような公教育が「よい」ものかについての共通の認識が私たちの間で成立する可能性があることを示してもいる。公教育のあるべき姿が見えにくくなっている今だからこそ、冷静にそして理性的に、どのような公教育であれば誰もが「よい」と言えるのかを考えあう必要に迫られている。本書はそうした問題意識に貫かれた著作として、読者による吟味と検証を待ち望んでいる。