国の死に方 (新潮新書) の感想
参照データ
タイトル | 国の死に方 (新潮新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 片山 杜秀 |
販売元 | 新潮社 |
JANコード | 9784106105005 |
カテゴリ | ジャンル別 » 社会・政治 » 政治 » 政治入門 |
購入者の感想
片山杜秀は、国民国家の終焉を冷徹に見つめている。本書は、311における無国家状態の因への歴史的視点からのアプローチであり、ゴジラに生命保険、無秩序の意識的創出によるヒトラー独裁など、読ませる内容だ。
ただ、プロセスの斬新さに対して、結語の「そんなに国を死なせたいのか」は、いかにも陳腐だ。
片山は国体を論じ、結局、敗戦で、君臣一如の犠牲精神という国体を喪失したことが、原発対応の為体を招いたとの論旨に読めなくもない。
そうかもしれないが、近代と反近代の双方に醒めている片山が、単純に犠牲精神の復権を主張しているとも思えない。
その先は?一体?
それは、片山自身の課題であろうし、読者に投げかけられた思考の宿題なのだろう。
「あなたは考えている。でもあなたの言っていることでは足りないんだ」
吉田秀和の評は、本書によく当てはまる。
ただ、プロセスの斬新さに対して、結語の「そんなに国を死なせたいのか」は、いかにも陳腐だ。
片山は国体を論じ、結局、敗戦で、君臣一如の犠牲精神という国体を喪失したことが、原発対応の為体を招いたとの論旨に読めなくもない。
そうかもしれないが、近代と反近代の双方に醒めている片山が、単純に犠牲精神の復権を主張しているとも思えない。
その先は?一体?
それは、片山自身の課題であろうし、読者に投げかけられた思考の宿題なのだろう。
「あなたは考えている。でもあなたの言っていることでは足りないんだ」
吉田秀和の評は、本書によく当てはまる。
膨大な読書量と、自ら系統立てたその読み方で特に『日本国の滅び方』を読み解く。
1925年(大正14年)、加藤高明内閣によって普通選挙法が成立した。
税金の支払を条件とした制限選挙に対して、成年男子すべてによる普通選挙を規定する法律である。
本書によればそのはじめになったのが、大正15年の浜松市議会議員選挙であった。
選挙当日は、大嵐となったにもかかわらず、投票率は9割。
これは市民の政治意識が高かったからなのか。
いや違う、と本書はいう。
金が動いたのである。貧しい農民にとって、選挙権を売り渡すことは理の当然であった。
買収によって投票率9割は達成したのである。
普通選挙法による最初の総選挙は1928年(昭和3年)。すべてを金で買うには選挙人が膨大すぎた。
そこで政党人が考えたことは『舌先三寸』である。
「政治的判断力を書く大衆相手に大政党が口先だけのデタラメを言い立てる」
大衆に政党に対する多大な期待が生まれるが、それは直ちに幻滅に変わる。
「政党が票欲しさに言って回ることと実際にやることが違いすぎる」からだ。
そして1932年(昭和7年)の、五・一五事件、1936年(昭和11年)の二・二六事件。
歴史は繰り返すと思わざるを得ない。口先三寸のポピュリスト選挙は今も続く。
それでも、クーデダーや暴動や、一揆が起こらないのは、
日本人が今何よりも大切にしているのは『平時』だからである。
平成の日本人が守りたい『平時』とはなにか。
電気やガスや水道や、交通や、携帯電話や、飽食や、それが守りたい『平時』なのである。
1925年(大正14年)、加藤高明内閣によって普通選挙法が成立した。
税金の支払を条件とした制限選挙に対して、成年男子すべてによる普通選挙を規定する法律である。
本書によればそのはじめになったのが、大正15年の浜松市議会議員選挙であった。
選挙当日は、大嵐となったにもかかわらず、投票率は9割。
これは市民の政治意識が高かったからなのか。
いや違う、と本書はいう。
金が動いたのである。貧しい農民にとって、選挙権を売り渡すことは理の当然であった。
買収によって投票率9割は達成したのである。
普通選挙法による最初の総選挙は1928年(昭和3年)。すべてを金で買うには選挙人が膨大すぎた。
そこで政党人が考えたことは『舌先三寸』である。
「政治的判断力を書く大衆相手に大政党が口先だけのデタラメを言い立てる」
大衆に政党に対する多大な期待が生まれるが、それは直ちに幻滅に変わる。
「政党が票欲しさに言って回ることと実際にやることが違いすぎる」からだ。
そして1932年(昭和7年)の、五・一五事件、1936年(昭和11年)の二・二六事件。
歴史は繰り返すと思わざるを得ない。口先三寸のポピュリスト選挙は今も続く。
それでも、クーデダーや暴動や、一揆が起こらないのは、
日本人が今何よりも大切にしているのは『平時』だからである。
平成の日本人が守りたい『平時』とはなにか。
電気やガスや水道や、交通や、携帯電話や、飽食や、それが守りたい『平時』なのである。