異邦人 (新潮文庫) の感想

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参照データ

タイトル異邦人 (新潮文庫)
発売日販売日未定
製作者カミュ
販売元新潮社
JANコード9784102114018
カテゴリジャンル別 » 文学・評論 » 文芸作品 » フランス文学

購入者の感想

なんといっても圧巻は第二部、裁判のシーンである。
ムルソーが法廷で裁かれることとなったのは、アラビア人を殺害したためで、法廷で追求されるべきは
当然そのアラビア人殺害についてであるはずだ。
しかし、論点はいつしかムルソーの不感無覚、つまり母親が死に、その葬式を執り行ったというのに
母の死に顔も見ず、涙も流さず、そそくさと退散し、翌日には、女と遊び、映画を見て笑い転げていたことに
対する非難へと移り変わっていく。
裁判の際、検事は陪審員に向かいこう主張する。
「母親の死の翌日、最も恥ずべき情事にふけった、その同じ男が、つまらぬ理由から、
なんとも言いようのない風紀事件のけりをつけようとして、殺人を行ったというわけです。」
こんな不謹慎な奴なら、殺人をして当然だ!とでも言わんばかりである。
そして、結果的にムルソーは死刑を下され、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望み、
物語は幕を閉じる。

集団は、その集団に迎合しない人間、つまりは「異邦人」を徹底的に排斥しようとする。
「みんなと同じ」である必要など本当はありはしないのだが、集団はそれを求め多くの人間はそれに応える。応えることが出来る。
しかし、応えられない人間も少なからずいるし、いていいはずだ。
たしかに肉親の死を悼むのは当然(ムルソーも悲しまなかったというわけではないが)だとしても、それに対して
偽りの涙を搾り出し、数週間にわたり憂鬱を演じ、娯楽を慎むふりをする意味が果たしてどこにあるだろうか。
また、ムルソーが神を信じていないことも、周りの人間に少なからず不信感を与えているが、信仰は作り出すものでは決して無い。
己が自然に信じることの出来ないものを、あたかも信じているかのように演じることは愚の骨頂である。
従ってムルソーは、ただ嘘をつくことを好まず、自分に対して正直に(正直過ぎるほどに)生きただけなのである。
ところが、集団はそれを許さない。故に彼は「異邦人」として断頭台に登ったのである。

 高齢者施設に暮らす母が亡くなったという知らせを受けたムルソーは、その死に対して涙を流すことなく、翌日には海水浴に行き、マリーと関係を結び、喜劇映画を見ていた。
 友人を通して関わったアラビア人を銃殺して逮捕され、裁判ではその動機を「太陽のせいだ」と答える。果たして彼には罪への償いの心はないのか…。

 今も<新潮文庫の100冊>に選ばれているこの『異邦人』を最初に読んだのはいつのことでしょうか。おそらく高校2年くらいのことでしょうから、今から30年以上も昔のことです。「きのうママンが死んだ」、「太陽のせい」といった断片的な言葉ばかりが記憶に残るばかりで、主人公ムルソーの殺害動機に一貫した何かがあったのかどうかも覚えていませんでした。

 今回再読しても、ムルソーの心模様を掴みかねる気持ちに変わりはありません。
 巻末の解説によれば、カミュ自身は自らを実存主義者ではないと明確に否定していたとありますが、それでもなお私は、この30年で学んだ実存主義思想の知識に照らして読んだほうがこの『異邦人』は理解しやすいように感じます。
 ムルソーの行動に理解ができない判事や検察、御用司祭の心に、「人間かくあるべし」とする気持ちが存在することに気づきます。その「かくあるべし」とするイデア的考えがアプリオリに存在することを否定することから出発する、そう考えているであろうムルソー。
 しかし一方で、この小説の最終場面のわずか後には彼が処刑台の露と消えてしまうことに、心むなしさを覚えないではありません。彼にはそこから出発して歩んでいくだけの十分かつ充実した時間があるとは到底思えません。出発しようとする意志だけが儚(はかな)く輝くだけです。

 この小説を読むことによって、読者に要求される「あるべき姿勢」とは何なのでしょうか。ムルソー的出発への意志を受け継ぎ、なおかつ処刑台への道のりを少しでも遠いものにすべく努めることでしょうか。
 人間に「あるべき姿勢」を求めることを否定するこの小説から、人間の「あるべき姿勢」を読みとるということの自己撞着に、私は今慄(おのの)き、震えるばかりです。

「昨日、ママンが死んだ。」
この大変有名な冒頭だけを私は知っていた。
そしてなんとなくこの話を読んだことがある気がしていた。
超がつくほど有名な名作短編にはよくある現象だろう。国境のトンネルを越えると雪国だったあと、夜の底が白くなるところまでしか多くの人は知らない。しかし皆なんとなく知っている気がしている。
さて、その何となく知っている気がしていた名作をこのたびはじめて熟読してみた。
そして感動した。
感動というより強烈な眩暈のようなものを感じた。
私が今さら褒めるまでもないがこの話は凄い。
本当にものすごく凄い。

裏表紙のダイジェストによれば、主人公ムルソーは「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える、通常の論理的な一貫性が失われている男」である。
実際に読む前、私はこの主人公を動物的な人間だと予測していた。過去もなく、未来もなく、追想も希望も論理的思考ももたない、ひたすら刹那の感覚のみに支配される人間。その予想は大きく外れてはいなかった。
しかし、彼は恐ろしく人間的だった。
刹那の感覚のみをつねに意識するムルソーは極度に理性的なのだ。獣は五感を意識はしない。ただ肉で感じるだけだ。ムルソーは頭で感覚を意識している。そして無意識の感情を知覚できない。
感情は媒体だ――詩的かつ陳腐に言い換えれば、人間の多くに共通する心の底の水のようなものだ。理性とは別の部分で湧き上がる単純な情動、悲しみや歓びや怒りや愛を私たちは共有している。
思考を忘れ、思考する自分を意識することを忘れてその水に浸るとき、人間の多くは孤独を忘れる。生の無目的さがもたらす虚無感も忘れる。
ムルソーはそこに浸れない人間だ。だからこそ、自分を「世間の人と同じだ」と必死で主張する。世間一般の人間が抱くだろう感情をつねに想像し、「こういうときにはこうするべきなのだろう」とつねに考えている。

私が初めてこの作品を読んだのは、19歳の時でした。大学一年生の夏休みであったと思います。それから19年が経った38歳の今年、再び読みましたが読後の感動が衰える事はありませんでした。

しかし、感動した箇所は変化しました。19歳の時は、ムルソーが司祭を捕まえ絶叫した、最後のセリフにうちふるえるような興奮を覚えたことを記憶しています。しかし、今回は作品全体を通して感じられる、人生に対する虚無感と虚無感を内包しながらも、人生に対して自分の主観から享受できる楽しみを思いっきり楽しみきろうとする、ムルソーの素直な生きざまに共感を覚えました。

人生には意味がないとの思いを抱きながら、斜に構えることないムルソーの人格は、彼自身に直に接し関係した人には理解されていたのだなと知りました。前回は気付きませんでしたが。

また、検事や陪審員をはじめとしてアンチ「ムルソー」としての、一般大衆の反応には既視観のようなものすら感じました。私も38歳まで生きてくれば、他人に自分を理解されなかったり誤解されなかった経験を持ちましたので。孤独感や疎外感という感覚は、他者の無理解というまなざしによって自らのうちに形成されるのかもしれません。

短い小説ですが、人生に深い感銘を与えてくれる作品だと思います。

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