日経BPクラシックス プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 の感想
参照データ
タイトル | 日経BPクラシックス プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | マックス・ウェーバー |
販売元 | 日経BP社 |
JANコード | 9784822247911 |
カテゴリ | ジャンル別 » ビジネス・経済 » 経済学・経済事情 » 経済史 |
購入者の感想
ドイツ、イギリス、アメリカ、そして極めつけオランダといったプロテスタントが多数を占める国の飯の不味さと言ったらない、その原因はピューリタン仕込みのあの「禁欲」かいな。ってことで、この本を読みだしたわけではない。
大塚久雄センセの名訳っていうか、(最近の巷の識者のお話では「誤訳・迷訳(?)だった!」)に翻弄された学生時代からこの本のことは気にはなっていた。しかし、そこはそれ、やはり難しくて、解説本とか概略本で済ませてきて、それなりの知識は得ていたつもりだった・・・・・
禁欲が資本主義の精神の発展に貢献したんじゃないかという「第1章:問題提起」を受けて、本文約500ページのうち約200ページがカルヴィニズム、敬虔派、メソジスト派、再洗礼派等々といったプロテスタンティズム各派の教義の解説に費やされていることにまず驚く。テーマは「禁欲」をどうとらえるかっていうことだ。
カルヴィニズムの「予定説」は怖ろしい。「救われる」人間は神の意思ですでに決められている、っていう例のあれ。神の予定に入っていない救われない人間はどうするって、怖い、怖い。その対応について各派はいろいろと考えた・・・・・・・。
ウェーバーは「職業としての政治」「職業としての学問」を書いているように、「職業」が気になる人で、本書でも、ルターの天職の観念を盛んに鼓舞している。要は一生懸命自分の仕事を大切にして、頑張ろう!っていうことだ。
中山新訳は、段落ごとに見出しをつけたりしているので、非常に読みやすくなっている。
正直、この本は読んで面白かったけど、反面、つくづくキリスト信者でなくてよかった、よかったって思うことしきり・・・・・
大塚久雄センセの名訳っていうか、(最近の巷の識者のお話では「誤訳・迷訳(?)だった!」)に翻弄された学生時代からこの本のことは気にはなっていた。しかし、そこはそれ、やはり難しくて、解説本とか概略本で済ませてきて、それなりの知識は得ていたつもりだった・・・・・
禁欲が資本主義の精神の発展に貢献したんじゃないかという「第1章:問題提起」を受けて、本文約500ページのうち約200ページがカルヴィニズム、敬虔派、メソジスト派、再洗礼派等々といったプロテスタンティズム各派の教義の解説に費やされていることにまず驚く。テーマは「禁欲」をどうとらえるかっていうことだ。
カルヴィニズムの「予定説」は怖ろしい。「救われる」人間は神の意思ですでに決められている、っていう例のあれ。神の予定に入っていない救われない人間はどうするって、怖い、怖い。その対応について各派はいろいろと考えた・・・・・・・。
ウェーバーは「職業としての政治」「職業としての学問」を書いているように、「職業」が気になる人で、本書でも、ルターの天職の観念を盛んに鼓舞している。要は一生懸命自分の仕事を大切にして、頑張ろう!っていうことだ。
中山新訳は、段落ごとに見出しをつけたりしているので、非常に読みやすくなっている。
正直、この本は読んで面白かったけど、反面、つくづくキリスト信者でなくてよかった、よかったって思うことしきり・・・・・
ウエーバーのこの論考は、日本では様々な議論の対象となっているので、新訳を出すということはかなり勇気のいることでしょうが、そのようなこととは関係なく、このような有名な図書は闊達な翻訳者による自由な翻訳が沢山出るべきなのです。資本論やヘーゲルの論考はいろんな人が翻訳しているにも係わらず、ウエーバーの本書の邦語訳は学者達の本家・家元論争に巻き込まれ、結果新訳を出す勇気すら若手から奪ってしまったのではないかと思われるほどです。そのような点で不幸で不毛な論争(学者としての資質の真贋すら問うような愚かでかつ過激なウエーバー批判と、それにウエットに対応するウエーバーに一生を捧げてしまった淋しい学者たちの応酬も含めて)も紙とインクを浪費するだけの単なる消耗でしかありませんでした。
でも日本ではなぜかこうなってしまうのです。日本ではウエーバーを議論するとあたかも愛人の取り合いのようになってしまい、学問としてのレベルは詳細な吟味でどこまで愛を示せるのかの競争になってしまいます、要するに研究は学派に帰依することを要求し宗教化してしまっているといってよいでしょう。
そのような次第で批判するにしても肯定するにしても日本の土壌ではウエーバーやその翻訳を語ること自体に不自然な慎重さが要求されるのですが、この翻訳はそれとは全く関係なく、自然体で提示されていることがすぐれた点だろうと思います。
従って、この新たな翻訳で新たに本書に接する人にはこれはよいものでしょうし、この論考を読んでウエーバーの弛まぬ長大な議論を理解したときの新鮮な驚きを得るには本書は申し分ないものです。
しかしながら、全体的な構成や主要な観点も大体知ってしまっている人々にとっては、この翻訳で益することは多分少ないでしょう。換言すれば、大塚訳あるいは梶山他訳で十年・二十年と暮らしてきた人間にとって、この新たな翻訳がもたらすものは細部の貢献を除くと多分ほとんどないといってよいかと思います。
でも日本ではなぜかこうなってしまうのです。日本ではウエーバーを議論するとあたかも愛人の取り合いのようになってしまい、学問としてのレベルは詳細な吟味でどこまで愛を示せるのかの競争になってしまいます、要するに研究は学派に帰依することを要求し宗教化してしまっているといってよいでしょう。
そのような次第で批判するにしても肯定するにしても日本の土壌ではウエーバーやその翻訳を語ること自体に不自然な慎重さが要求されるのですが、この翻訳はそれとは全く関係なく、自然体で提示されていることがすぐれた点だろうと思います。
従って、この新たな翻訳で新たに本書に接する人にはこれはよいものでしょうし、この論考を読んでウエーバーの弛まぬ長大な議論を理解したときの新鮮な驚きを得るには本書は申し分ないものです。
しかしながら、全体的な構成や主要な観点も大体知ってしまっている人々にとっては、この翻訳で益することは多分少ないでしょう。換言すれば、大塚訳あるいは梶山他訳で十年・二十年と暮らしてきた人間にとって、この新たな翻訳がもたらすものは細部の貢献を除くと多分ほとんどないといってよいかと思います。