自由とは何か (講談社現代新書) の感想
参照データ
タイトル | 自由とは何か (講談社現代新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 佐伯 啓思 |
販売元 | 講談社 |
JANコード | 9784061497498 |
カテゴリ | ジャンル別 » 人文・思想 » 倫理学・道徳 » 倫理学 |
購入者の感想
2004年刊行。
自由という身近でありふれた概念をその思想的な根拠から問い直している。今の日本であまりにも当然のものになりすぎて、切実感の失われた自由というものに対して、いかにその意味を問い直すかが本書の主題だ。
著者はまず自由という概念が現れた歴史的背景から検討している。近代的な自由の概念は、絶対王政下における身分的抵抗の中から現れた。その後、この自由という概念は、さまざまな思想家の議論の中で彫琢され、社会や国家から自立した自由な個人という理念へと発展していった。近代的な意味における自由は、拘束、障害、抑圧からの自由を第一義とする。そのため、近代思想の文脈の中では、自由は本質的に道徳に対立し、政治的には権力に対立することになる。
しかし、人が社会の中で生きる以上、道徳や権力は不可欠なものだ。ホッブスの社会契約論やカントの道徳律の議論は、人間の自由を絶対的な条件として認めた上で、いかにして権力や道徳を正当化させるのかという試みだったと言ってもいいだろう。だが、カントの時代のような宗教的な背景を当てにすることが出来なくなった現代では、リベラリズムは、功利主義的な方法でしか権力や道徳を正当化する方法を持っていない。
ここに現代リベラリズムが陥るディレンマがある。最大多数の最大幸福を原理として掲げると、大多数のものにとって有益と判断されさえすれば、差別や虐殺も正当化されかねない。また合理的な判断せず、自己利益すら否定して行動するものを批判する根拠がない。つまり、今のリベラリズムには、多数者の圧制や破滅型の個人を拘束する思想的根拠が存在しないのだ。
その結果が、今のアメリカにおけるイラク戦争の正当化や宗教原理主義の台頭などに現れている。一方、日本におけるリベラリズムの限界は、教育の問題として端的に現れた。子供たちが、殺人や売春を個人の自由と言ってしまったとき、それを諭す大人の側にはそれを反論する論拠が何もなかったのだ。
自由という身近でありふれた概念をその思想的な根拠から問い直している。今の日本であまりにも当然のものになりすぎて、切実感の失われた自由というものに対して、いかにその意味を問い直すかが本書の主題だ。
著者はまず自由という概念が現れた歴史的背景から検討している。近代的な自由の概念は、絶対王政下における身分的抵抗の中から現れた。その後、この自由という概念は、さまざまな思想家の議論の中で彫琢され、社会や国家から自立した自由な個人という理念へと発展していった。近代的な意味における自由は、拘束、障害、抑圧からの自由を第一義とする。そのため、近代思想の文脈の中では、自由は本質的に道徳に対立し、政治的には権力に対立することになる。
しかし、人が社会の中で生きる以上、道徳や権力は不可欠なものだ。ホッブスの社会契約論やカントの道徳律の議論は、人間の自由を絶対的な条件として認めた上で、いかにして権力や道徳を正当化させるのかという試みだったと言ってもいいだろう。だが、カントの時代のような宗教的な背景を当てにすることが出来なくなった現代では、リベラリズムは、功利主義的な方法でしか権力や道徳を正当化する方法を持っていない。
ここに現代リベラリズムが陥るディレンマがある。最大多数の最大幸福を原理として掲げると、大多数のものにとって有益と判断されさえすれば、差別や虐殺も正当化されかねない。また合理的な判断せず、自己利益すら否定して行動するものを批判する根拠がない。つまり、今のリベラリズムには、多数者の圧制や破滅型の個人を拘束する思想的根拠が存在しないのだ。
その結果が、今のアメリカにおけるイラク戦争の正当化や宗教原理主義の台頭などに現れている。一方、日本におけるリベラリズムの限界は、教育の問題として端的に現れた。子供たちが、殺人や売春を個人の自由と言ってしまったとき、それを諭す大人の側にはそれを反論する論拠が何もなかったのだ。
そもそも何のための自由か。
仮に自由になりえた時に、目指すべき価値とはなんなのか。
生きる目的ともいえるこの価値は、語り得ぬものである。
それゆえ、我々は、この語り得ぬものに対して沈黙してきた。
そして目的を忘れ、いつしか手段である自由や民主主義が、目的となった。
私は、なぜ自由に生きられないのかと感じながら閉塞感のうちに日々を暮らしていた。
しかし本書を読んで、私は実は既に自由だった、そしてそのうえで目的が無かったということ
らしいということに気付かされた。
これは、本書の一部の内容に過ぎない。
読者はそれぞれ、本書から感じ取ることが様々あると思う。
第6章第2節以降は、語り得ぬものを果敢に語ろうという試みになる。
著者は、共同体を形成してきた犠牲者(死者)に対する責任を果たすことを義として
これを自由の目的という。これは相対的な価値ではないという。
正直、これに与するほどには、議論に説得力が無い。
これは、著者が引用した
『自己の確信の相対的であることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること』が
文明人であるという言葉に応えたものだろう。
これに関して賛否両論あるのは当然で、著者も自分の義が自由の目的であるということが
唯一絶対ではないことを自覚しているだろう。
そのうえで、信念として、相対的ではない価値として論じている。
他人の信念は主観主義(趣味の問題)に吸収される。
そして、自分の信念もまた同じである。
そのうえで、我々は自由を得ていかに生きるかを問われている。
より練られた続編を期待する。
仮に自由になりえた時に、目指すべき価値とはなんなのか。
生きる目的ともいえるこの価値は、語り得ぬものである。
それゆえ、我々は、この語り得ぬものに対して沈黙してきた。
そして目的を忘れ、いつしか手段である自由や民主主義が、目的となった。
私は、なぜ自由に生きられないのかと感じながら閉塞感のうちに日々を暮らしていた。
しかし本書を読んで、私は実は既に自由だった、そしてそのうえで目的が無かったということ
らしいということに気付かされた。
これは、本書の一部の内容に過ぎない。
読者はそれぞれ、本書から感じ取ることが様々あると思う。
第6章第2節以降は、語り得ぬものを果敢に語ろうという試みになる。
著者は、共同体を形成してきた犠牲者(死者)に対する責任を果たすことを義として
これを自由の目的という。これは相対的な価値ではないという。
正直、これに与するほどには、議論に説得力が無い。
これは、著者が引用した
『自己の確信の相対的であることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること』が
文明人であるという言葉に応えたものだろう。
これに関して賛否両論あるのは当然で、著者も自分の義が自由の目的であるということが
唯一絶対ではないことを自覚しているだろう。
そのうえで、信念として、相対的ではない価値として論じている。
他人の信念は主観主義(趣味の問題)に吸収される。
そして、自分の信念もまた同じである。
そのうえで、我々は自由を得ていかに生きるかを問われている。
より練られた続編を期待する。