超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書) の感想
参照データ
タイトル | 超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 竹田 青嗣 |
販売元 | 講談社 |
JANコード | 9784062880503 |
カテゴリ | 人文・思想 » 哲学・思想 » 西洋思想 » 西洋哲学入門 |
購入者の感想
今まで何を読んでいたのかと思えるほど充実した内容。
感覚的唯物的な始まりから、いかにして精神が内面の充実を獲得していくかの行程を描写した、まるで「疾風怒濤期」のヘーゲル=「体系序論であると同時に、体系総論でもある(金子武蔵)」ような哲学的方法論。
特にフランス革命の混乱を記述したとして有名な「絶対的自由」のくだり以降、「良心」を経由して「宗教」「絶対知」までの、この書による説明は出色の出来栄えで、どんな小説もかなわないほど、べらぼうに面白い。
「絶対知」の章の補足でマルクスの命題(「下部構造が意識を規定する」)に限定留保つきで同意していたのはビミョーだったが、とにかく「すらすら」と読ませる(!)『精神現象学』入門書の決定版だと思う。
感覚的唯物的な始まりから、いかにして精神が内面の充実を獲得していくかの行程を描写した、まるで「疾風怒濤期」のヘーゲル=「体系序論であると同時に、体系総論でもある(金子武蔵)」ような哲学的方法論。
特にフランス革命の混乱を記述したとして有名な「絶対的自由」のくだり以降、「良心」を経由して「宗教」「絶対知」までの、この書による説明は出色の出来栄えで、どんな小説もかなわないほど、べらぼうに面白い。
「絶対知」の章の補足でマルクスの命題(「下部構造が意識を規定する」)に限定留保つきで同意していたのはビミョーだったが、とにかく「すらすら」と読ませる(!)『精神現象学』入門書の決定版だと思う。
竹田氏・西氏の前著「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」は、(他の入門書よりはよほど分かり易いのだろうが)まだまだ読みにくさのある本だった。
それを両氏も自覚していたのか、さらに読みやすい本書の登場となった。
今度はさすがに読みやすい。この本でまだ分かりにくいとすれば、それはもう原著者ヘーゲルのせいだろう(さすがに言い過ぎか?)。ただ、後半部(良心のあたり)が若干駆け足ぎみだったろうか。
ヘーゲルは、人間(意識)が様々な紆余曲折を経て次第に真実(精神)へと近づき、ついには到達するという「進歩的」な歴史観の持ち主だった。
それは、別の言い方をすれば「様々なものに縛られていた人間がだんだん自由になり、最後は絶対の自由を獲得する過程」である。
このような進歩は、「それまで正しいと思っていたこと」(知)が「実際そうであること」(真)によって絶えず更新される、という運動の連続によって漸近的に達成される。
この「だんだん良くなる」というのが、ヘーゲル思想の懐の深さである。
当時、「有限で不完全な存在である人間が本当に真実を知り得るのか」という認識論の問題が、哲学における大きな難問だった。
確かに、頼りない人間の理性ががいきなり真実をわしづかみにするというのはちょっと考えにくい。
だから、「絶対に無理」という不可知論や、「(現象界という)限定付きの真理なら可能」というカントの見解に落ち着くことになってしまう。
だが、「いきなり」は無理でも「だんだん」ならどうか。
時々壁にぶつかったり、ちょっと後戻りすることはあっても、長い目でみれば人間は少しずつ真実に近づいているのではないか。
あたかも街道を旅する人間が宿場を一つ一つ通り過ぎていくように、人間は真実への階段を上っていくのである。
もしそうだとすれば、哲学はそのようなプロセスの全貌を描き出す作業だということになる。
つまり、哲学はある種の「世界史」のように記述されるのである。
それを両氏も自覚していたのか、さらに読みやすい本書の登場となった。
今度はさすがに読みやすい。この本でまだ分かりにくいとすれば、それはもう原著者ヘーゲルのせいだろう(さすがに言い過ぎか?)。ただ、後半部(良心のあたり)が若干駆け足ぎみだったろうか。
ヘーゲルは、人間(意識)が様々な紆余曲折を経て次第に真実(精神)へと近づき、ついには到達するという「進歩的」な歴史観の持ち主だった。
それは、別の言い方をすれば「様々なものに縛られていた人間がだんだん自由になり、最後は絶対の自由を獲得する過程」である。
このような進歩は、「それまで正しいと思っていたこと」(知)が「実際そうであること」(真)によって絶えず更新される、という運動の連続によって漸近的に達成される。
この「だんだん良くなる」というのが、ヘーゲル思想の懐の深さである。
当時、「有限で不完全な存在である人間が本当に真実を知り得るのか」という認識論の問題が、哲学における大きな難問だった。
確かに、頼りない人間の理性ががいきなり真実をわしづかみにするというのはちょっと考えにくい。
だから、「絶対に無理」という不可知論や、「(現象界という)限定付きの真理なら可能」というカントの見解に落ち着くことになってしまう。
だが、「いきなり」は無理でも「だんだん」ならどうか。
時々壁にぶつかったり、ちょっと後戻りすることはあっても、長い目でみれば人間は少しずつ真実に近づいているのではないか。
あたかも街道を旅する人間が宿場を一つ一つ通り過ぎていくように、人間は真実への階段を上っていくのである。
もしそうだとすれば、哲学はそのようなプロセスの全貌を描き出す作業だということになる。
つまり、哲学はある種の「世界史」のように記述されるのである。