放射能とナショナリズム (フィギュール彩) の感想
参照データ
タイトル | 放射能とナショナリズム (フィギュール彩) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 小菅 信子 |
販売元 | 彩流社 |
JANコード | 9784779170102 |
カテゴリ | ジャンル別 » 科学・テクノロジー » エネルギー » 原子力・放射線 |
購入者の感想
問題に対して臨む態度について学べます。この中で紹介されている関東大震災後の石橋湛山の「東洋経済」社説にある「落ち着いて善く考え、協同して静かに秩序を立て、地味の仕事をする」という言葉、大事なことだと思いました。中西準子「原発事故と放射線のリスク学」、開沼博「はじめての福島学」に続いて読みました。
脱原発を訴える人々が、被災地への露骨な差別、根拠のないデマや中傷を振りかざしている。
戦後の和解という問題に取り組んできた小菅信子氏が、自ら被災地へ赴いて考えたこと、また、自らも批判された経験などを踏まえて放射能とナショナリズムの関係を問い直した本書は、脱原発の市民運動を無批判に礼賛してきた論者らがあえて目を瞑ってきた現実を厳しく問いただしている。
脱原発を志向する市民運動は、ナショナリズムに批判的な人たちが多い(もちろん例外もいるわけだが)。しかし、その精神構造や論理、行動原理は両者とも似通っている。小菅氏は脱原発のためなら多少のデマも許されるという態度をとっているかに見える一部のジャーナリズム、論者らが、実は第三者であるにも関わらず、過剰に当事者意識を持ちすぎているという指摘の上で、「第三者」として物事と向き合うことの必要性を指摘している。これは、過剰に我々に当事者性を要請してきたあらゆる運動に、強烈な自省を促すものであり、注目に値する。
憎悪や不信、レッテル張りによって自らの位置づけを規定し、和解ではなく罵倒を、連帯ではなく闘争を、寛容ではなく狭量を生産し続けている脱原発運動(それだけでなく、ヘイトポリティックスと呼んでもいいレイシズムもある)は、まさに「錬金術」と言ってもいいのではないだろうか。その錬金術を防止するために、自らの記録を自らでつくり、「プロメテウスなどいない」(言うまでもなく、朝日新聞の連載記事の題名を批判している)現実を受け止めること、その必要性と方法を説いた本書は、今、福島を(決して「フクシマ」ではない!)考える人たちが読まねばならない価値ある一冊である。0
戦後の和解という問題に取り組んできた小菅信子氏が、自ら被災地へ赴いて考えたこと、また、自らも批判された経験などを踏まえて放射能とナショナリズムの関係を問い直した本書は、脱原発の市民運動を無批判に礼賛してきた論者らがあえて目を瞑ってきた現実を厳しく問いただしている。
脱原発を志向する市民運動は、ナショナリズムに批判的な人たちが多い(もちろん例外もいるわけだが)。しかし、その精神構造や論理、行動原理は両者とも似通っている。小菅氏は脱原発のためなら多少のデマも許されるという態度をとっているかに見える一部のジャーナリズム、論者らが、実は第三者であるにも関わらず、過剰に当事者意識を持ちすぎているという指摘の上で、「第三者」として物事と向き合うことの必要性を指摘している。これは、過剰に我々に当事者性を要請してきたあらゆる運動に、強烈な自省を促すものであり、注目に値する。
憎悪や不信、レッテル張りによって自らの位置づけを規定し、和解ではなく罵倒を、連帯ではなく闘争を、寛容ではなく狭量を生産し続けている脱原発運動(それだけでなく、ヘイトポリティックスと呼んでもいいレイシズムもある)は、まさに「錬金術」と言ってもいいのではないだろうか。その錬金術を防止するために、自らの記録を自らでつくり、「プロメテウスなどいない」(言うまでもなく、朝日新聞の連載記事の題名を批判している)現実を受け止めること、その必要性と方法を説いた本書は、今、福島を(決して「フクシマ」ではない!)考える人たちが読まねばならない価値ある一冊である。0