やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O) の感想

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参照データ

タイトルやっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)
発売日販売日未定
製作者大澤 真幸
販売元左右社
JANコード9784903500522
カテゴリ »  » ジャンル別 » 文学・評論

購入者の感想

宗教を現代人に分かるように(キリスト教)を説いている点がいままでにない新鮮さがある。
「信仰」としての在り方の理解をもつ人に対してのアプローチがもう少しあれば秀逸。

 橋爪・大澤の『ふしぎなキリスト教』には自称・他称さまざまな識者から批判・反論続出だったわけだが、私はキリスト教のことなんてロクに知らないので、事実誤認がドーノコーノという類のことは言えない。でも読んでいて違和感、異論のあるところは随処にあって、とにかく橋爪・大澤の2人は口が上手いというか、逆説を多用して何でもかんでも意味ありげに抽象化し、読者を丸め込もうとしているとしか思えない。
 例えばp25、大澤が「ときどき、契約が維持される究極の根拠として、暴力、つまり脅迫を挙げる人がいますが、脅迫でさえも、実は一種の契約です。脅迫者は、『もしお前が〇〇をしなければ、お前を殺す』等のことを約束しているのです」と論じているのだが、これ論理トリックでしょ? 大体、「暴力、つまり脅迫」って簡単に言い換えるところで疑問符。で、脅迫は契約だって言うんだけど、百歩譲ってそういう等式が成り立つ水準があると認めたとしよう。しかしその場合、「契約」の意味が変質しているわけで、言葉の同一性を介して等置できないものが等置されていると思う。
 ま、脅迫は契約じゃないと私は思うけどね。映画でも小説でも、そして現実でも、脅迫者はかなりの確率で相手を殺しちゃうもん。
 あるいはp87、キリスト教徒が合理的に考え、行動することによって近代化に成功した理由を問うて、橋爪は「それは聖書とかキリスト教の考え方が十分合理的ではないからだと思います」と答える。こういう逆説に痺れる人は痺れるんだろうけど、言ったもん勝ちっていうのはこういうことじゃないか? イスラム教や仏教は「言っていること自体が非常に合理的」だったんで人は教典に書かれた通りにしか考えたり行動したりできなかった。でもキリスト教は「そうではなかった」から、人々は「合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験することができた」らしい。
 まずキリスト教が「そうではなかった」って、どういうこと? 不合理だってこと? それとも「非常に合理的」の否定で「それほど合理的ではない」ってこと?

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