忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫) の感想

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タイトル忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)
発売日販売日未定
製作者丸山 眞男
販売元筑摩書房
JANコード9784480083982
カテゴリ人文・思想 » 哲学・思想 » 東洋思想 » 東洋哲学入門

購入者の感想

丸山眞男の「忠誠と反逆」(ちくま学芸文庫1998年刊)は、主に明治維新の日本を題材に「日本人にとっての忠誠とは何に対してであったのか、幕府への反抗、また西南戦争における政府への反抗は忠を否定した反逆であったのか、を論考した興味深い内容です。

国民国家における職業軍人にとって「忠誠と反逆」の意味するものは何なのか。例えば、第二次大戦において、ドイツ軍内で起きたヒトラー暗殺計画やパリ撤退と同時に文化あふれる都、パリを破壊しろとの命令を無視し、貴重な文明の破壊を阻止したコルティッツ将軍は反逆者だったのか。現代のタイやエジプトのクーデターの主犯となった軍人達は反逆者として扱われるべきなのか、その際の忠誠とは誰に対するものであるべきなのか。ウクライナ国防軍は暴力的に暫定政権に変わった時点でその政権に従うのが忠誠で良かったのか、では日本で暴力的に政変が起こったら、権力を掌握した新体制の指示に自衛隊や警察は従うことが公務員として正しい姿なのか。こういった問いは一つの解答に限られる事はない(丸山は見方と状況で評価が異なることを限界効用と表現していますが)とは思いますが、これらの悩ましい問いを検討するきっかけを丸山の論文は答えてくれているように思いました。以下抄録ではありませんが、氏の内容を加味して自分なりにまとめた内容を記してみます。

1)西洋(或はイスラム一神教も含む)のエトスにおける忠誠

一神教における社会では各個人が一義的に忠誠を誓う相手は「神」であり、雇い主や国王、或は社会そのものが神の教えに背くものであればそれに「反旗を翻す」ことが忠誠であり、倫理的にも良しとされます。これは「倫理的善悪の決め方」の項でいつも私が述べていることと同じです。だから神の教えに背く行いをする国家を倒す権利が国民に認められていると考えるのが常識となっているのです。これを「テロリズム」とレッテルを張って取り締まりたいのが体制側ですが、本来それは許されない(米国にとって都合が良い場合は「民主化勢力」といって支援することになっている)ことであり、神の教えに背くことこそが反逆者の汚名を着るべき者達と言えるのです。

2)日本における伝統的な忠誠の考え方

読了に半月かかりました。こんなに重厚な本がこれから日本で書かれるのだろうかと思えるほど、各論文とも充実した内容で、珠玉の言葉が溢れていました。これだけ線を引いたり書き込みをしたりした本は小生は今までありません。万人にお奨めの本では決してございませんが、一生に一度は読んでおきたいレベルの本だと思います。

小生の印象に残った点は以下です。
・日本の底流は、「つぎつぎに、なりゆく、いきほひ」。勝手に死に、生殖する(暴)力。
・明治や戦後にパッと方向が変わったのも、単に「いきほひ」/クウキに追従しただけ。
・武士には、「服従」と「自負」という矛盾する二面が室町時代にはあった。後者は「諫争」であったが、凍結型の江戸時代に廃れ、Conformity(大勢順応)のみになった。
・福沢諭吉は「知」(真)、内村鑑三は「宗教改革」(善)、岡倉天心は「美」の各面で明治初期を代表した。
・謀叛もできないような人民に、本物の忠誠は期待できない。
・「非国民」「国賊」の罵声の中での光栄ある孤立。
・最近失った人、もう少しで届く人が、改革の中心となる。
・人民精神の3段階(植木枝盛):(1)天皇への服従→(2)法への服従→(3)人民主体
・「お上は逆賊なり」(安藤昌益):忠誠とは本来双方向のもの
・日本のキリスト教は、「家族主義」と妥協し、天皇制と同化した。
・「独立心を憎むの官吏が教育を監督している」(三宅雪嶺)
・討論と会議のルール(福沢諭吉「会議弁」)。複数視点の対話は真理発見の手続き。
・中心によりかかる日本(傲慢と卑屈:"道徳")と、平等/上位規範がある欧米
・「情」は下意識。政治には有効。
・思想史研究とは、(クラシック)音楽の演奏のようなもの。誰かが楽譜(史料)を演奏しなければ音楽は聞こえてこない。

 「いきほい」に便乗して、少数意見を「国賊」扱いとし、「おのずから」ガラパゴスに「なる」日本の底流は、必然的に大きな破綻に繋がってしまうことに、多くの人々が気付いて欲しいと思います。

表題ともなっている「忠誠と反逆」をはじめ、「歴史意識の『古層』」といった有名な論文を収録した丸山真男の論文集であるが、いちばん最後に収録されている「思想史の考え方について」を読み通して初めて、何か腑に落ちた感を覚えた。川崎修の解説にあるように、この本が「最も丸山真男らしい丸山真男が現れている」ものであるとするならば、丸山が問い続けていたのは、「自分」から導き出され、「自分」に還っていく、そのような問題系ではなかったか。

「近代啓蒙主義者」と形容されるのも故なしとはできない丸山ではあるが、西洋近代的な理性や合理性、あるいは中国的な思考様式をもってしては括りこめない何か、よくわからないが確かに感じる何かへの探求こそ、ここに収録された諸論考に丸山を導いたのではなかったか。自らの外を取り巻き、内を満たし、それなしでは考えることも自分であることすらもできない「何か」。

この「何か」への問いへのこだわりが、見方によっては「日本嫌い」とされたり「ナショナリスティック」とされたりするのだろう。だが、丸山が垣間見せるような、頭で考えるほどには思うようにならぬ自らに対する苛立ちや、気がつけば親先祖の代から自らへと受け継がれている「伝統」への気付きと無縁でいられる人間が、いったいどこにいると言うのか。

そのような観点から評者は、丸山の日本思想史への思い入れや「古層」へのこだわりを理解する(むろんこれは評者の勝手な解釈に過ぎない)。個人的には、「他人事としての研究」よりも「我が事としての研究」にシンパシーを感じる質なので、読み始める前に比べれば、丸山への好感度は明らかに高まった。0

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