太平記(二) (岩波文庫) の感想
参照データ
タイトル | 太平記(二) (岩波文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
販売元 | 岩波書店 |
JANコード | 9784003014325 |
カテゴリ | 古典 » 日本の古典 » 古代・中世文学 » その他の物語文学 |
購入者の感想
太平記に関する知識は、二十年以上前に頼山陽の日本外史の抄訳で読んだ
程度で、その中の合戦での兵力や死者の数が、少し多すぎて実感がわかない
ところが、太平記の世界にあまり親しみを持てない理由のひとつでも
ありましたが、これを歴史小説として見ると単純に数字を十倍に盛って
表現した可能性があり、「二万騎を率いて上洛」とあれば「二千騎」と
読み替えれば、ぐっと現実感が湧いてきます。
文庫本第二冊は、第九巻から十五巻まで、足利尊氏(高氏)が北条高時に
見切りをつけて宮方に寝返り、丹波篠村八幡で旗揚げし六波羅を落とし、
関東では新田義貞が上州生品明神で討幕の旗揚げをし、鎌倉を攻め落とします。
後醍醐帝が帰洛して勝利の美酒に酔う中、尊氏は大塔宮を鎌倉に流し、
高時の遺児時行が起こした中先代の乱のどさくさで大塔宮を暗殺し、そのまま
鎌倉で将軍と呼ばれるようになり、宮方の大将新田義貞との戦いが始まります。
この間にどんな政治的な変化があったのかは触れられていませんが、おそらくは
後醍醐帝の親政が人心を捉えることができなかったのか、将軍方の勢力が膨らみ、
都が攻められて帝は山門を頼って比叡山に落ち、山門と寺門との戦いの間に
奥州から北畠の援軍が到着し、楠の智謀もうまく働いて再度都を奪い返し、
尊氏は九州へ落ちて再起を図ります。
程度で、その中の合戦での兵力や死者の数が、少し多すぎて実感がわかない
ところが、太平記の世界にあまり親しみを持てない理由のひとつでも
ありましたが、これを歴史小説として見ると単純に数字を十倍に盛って
表現した可能性があり、「二万騎を率いて上洛」とあれば「二千騎」と
読み替えれば、ぐっと現実感が湧いてきます。
文庫本第二冊は、第九巻から十五巻まで、足利尊氏(高氏)が北条高時に
見切りをつけて宮方に寝返り、丹波篠村八幡で旗揚げし六波羅を落とし、
関東では新田義貞が上州生品明神で討幕の旗揚げをし、鎌倉を攻め落とします。
後醍醐帝が帰洛して勝利の美酒に酔う中、尊氏は大塔宮を鎌倉に流し、
高時の遺児時行が起こした中先代の乱のどさくさで大塔宮を暗殺し、そのまま
鎌倉で将軍と呼ばれるようになり、宮方の大将新田義貞との戦いが始まります。
この間にどんな政治的な変化があったのかは触れられていませんが、おそらくは
後醍醐帝の親政が人心を捉えることができなかったのか、将軍方の勢力が膨らみ、
都が攻められて帝は山門を頼って比叡山に落ち、山門と寺門との戦いの間に
奥州から北畠の援軍が到着し、楠の智謀もうまく働いて再度都を奪い返し、
尊氏は九州へ落ちて再起を図ります。
元弘3年、京都にいた足利高氏は後醍醐帝の綸旨を得て幕府に叛旗をひるがえします。六波羅探題は陥落し、鎌倉は新田義貞に攻め込まれて滅亡しました。後醍醐帝は京都に還幸し、ここに建武の中興がなりました。尊氏は北条時行の乱を鎮定し、関東管領として鎌倉に入りますが、新田一族の所領を処分したことから、義貞と対立します。義貞の奏請により後醍醐帝は尊氏討伐を決意。尊氏は義貞を破って入京し、後醍醐帝は比叡山に臨幸しました。その後、楠正成の智略、義貞らの反攻によって尊氏は大敗し、九州へ逃れました。
太平記は脱線が多いのが特色ですが、この脱線部分が彩を添えておもしろい。本巻では、俵藤太秀郷の百足退治の伝承を懐かしく読みましたが、注目すべきは春秋時代の晋の献公の後妻驪姫の逸話です。驪姫の讒言によって先妻の長男は自殺、次男重耳(のちの文公)は国外に逃れました。あげく晋は臣下に国を奪われました。この話は、後醍醐帝が尊氏の讒言によって建武の中興に大きな功績のあった大塔宮護良親王を足利直義に引き渡したことを咎めているのですが、むしろ後醍醐帝が寵姫の口出しによって恣意的な論功行賞を行った結果、新政権を支えた武士の信頼を失い、新政が失敗に終わったことを諷しているのでしょう。
本書の底本は、龍安寺所蔵の西源院本。底本は漢字、片仮名交じりですが、本書は漢字、平仮名交じりに改められています(岩波の古典文学大系本は確か片仮名交じりでした)。仮名づかいは歴史的仮名づかいですが、漢字は新字体、正字体、通行の字体が使われているので、見慣れているぶん読みやすい。
太平記は脱線が多いのが特色ですが、この脱線部分が彩を添えておもしろい。本巻では、俵藤太秀郷の百足退治の伝承を懐かしく読みましたが、注目すべきは春秋時代の晋の献公の後妻驪姫の逸話です。驪姫の讒言によって先妻の長男は自殺、次男重耳(のちの文公)は国外に逃れました。あげく晋は臣下に国を奪われました。この話は、後醍醐帝が尊氏の讒言によって建武の中興に大きな功績のあった大塔宮護良親王を足利直義に引き渡したことを咎めているのですが、むしろ後醍醐帝が寵姫の口出しによって恣意的な論功行賞を行った結果、新政権を支えた武士の信頼を失い、新政が失敗に終わったことを諷しているのでしょう。
本書の底本は、龍安寺所蔵の西源院本。底本は漢字、片仮名交じりですが、本書は漢字、平仮名交じりに改められています(岩波の古典文学大系本は確か片仮名交じりでした)。仮名づかいは歴史的仮名づかいですが、漢字は新字体、正字体、通行の字体が使われているので、見慣れているぶん読みやすい。