西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書) の感想

アマゾンで購入する

参照データ

タイトル西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)
発売日販売日未定
製作者佐伯啓思
販売元新潮社
JANコード9784106105890
カテゴリジャンル別 » 人文・思想 » 哲学・思想 » 哲学

購入者の感想

よくわからない。
西田哲学と現象学の相違点について知りたかったのですが、私の不勉強もありよくわかりませんでした。
所謂「大東亜戦争」と書くところで筆者の思想的見地が明らかになるわけでして、正直良くとっても「西田哲学をダシにした持論の展開」に過ぎないと思います。
しきりにヘーゲルやらデカルトやらと比べておりますが、フッサールやハイデッガーに(多分)言及していないのはどうかと思われます。
自己と向き合うことと内向きに思考する事は別ではないでしょうか?この方の考え方が好きな方には良いのではないかと思われます。

 著者は経済学者で哲学者ではありませんが、近代日本文明の流れにおいて西田哲学を位置づけ、人間西田を前面に押し出して西田の思想史的意義について明解に説明しています。西洋近代哲学を摂取しつつ、日本独自の哲学を樹立しようと日々苦闘していた哲学者西田の人生を見事に述べています。西田哲学の独自性は西洋哲学と日本思想を融合しながら「純粋経験」や絶対無の思想を生み出しました。その経緯については納得できる解説ですが、西田哲学の思想的解説についてはやや物足りなく感じられるのがやや残念です。私が不満に思うのは、著者が意識に現れたものを存在と考えているのではないかということです。デカルトが「われ思う、ゆえにわれ在り」という結論に到達したのは、客観的真理を確立するためには認識する私の存在を前提しなければならないということではないかと思われます。西田の純粋経験については、主観と客観の統一と反省する私の自己意識が生じる以前の段階として述べられていますが、主観と客観を意識の現れから考えるという現象学的認識論が前提にあると思われます。それに対してデカルトの「思考する私」の存在は対象の外部に実在するものであり、認識を可能にする働きそのものです。デカルトが発見した自我が近代的自我と言われるのはこうした理解によるものではないかと思われます。この点については西田自身の著作と哲学の専門家の著作をじっくり時間をかけて読むべきなのでしょう。西田の思想から見れば、主観と客観を統一する働きとしての純粋経験を可能にする場所は「無」と表現する以外に方法はないと思われます。とはいえ、これだけ西田の思想的核心に日本文明からアプローチした書物は類がなく、その点にこの著作の意義があるのだと思います。西田哲学への入り口として本書を薦めます。

誤って、西田哲学の新たな解説書だと思って買ってしまいました。

「これは西田の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」と「あとがき」に書いてある通り、本書は、佐伯さんによる日本文化論という色合いが強く、西田哲学はかなりそちらに引き寄せた形で利用されています。西田哲学への入門的解説を求める方は、藤田正勝さんや小坂国継さんや上田閑照さんの本を読むべきだと思います(どの方の本も、するする読めるとはいきませんが)。

本書も、超越的述語面の解説などの点では、思い切った大づかみな説明をしていて(不正確だが分かりやすいという意味で)興味深いのですが、絶対矛盾的自己同一の説明など明らかに無理があります(というより説明していない)。とはいえ、これは解説書だと思って読んだ私が悪いとも言えます。

あなたの感想と評価

コメント欄

関連商品の価格と中古

西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)

アマゾンで購入する
新潮社から発売された佐伯啓思の西田幾多郎 無私の思想と日本人 (新潮新書)(JAN:9784106105890)の感想と評価
2017 - copyright© みんこみゅ - アマゾン商品の感想と評価 all rights reserved.