探検家、36歳の憂鬱 の感想
参照データ
タイトル | 探検家、36歳の憂鬱 |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 角幡 唯介 |
販売元 | 文藝春秋 |
JANコード | 9784163754703 |
カテゴリ | ジャンル別 » ノンフィクション » 歴史・地理・旅行記 » 紀行文・旅行記 |
購入者の感想
昨年、「空白の五マイル」で、ノンフィクション関係の賞を総なめにした、角幡唯介(かくはたゆうすけ)の、第一エッセイ集である。と同時に期せずして、<いまどき>の探検家・冒険家の実像を、ある意味で自虐的にすら解剖して見せた、<探検家生態読本>ともなっていることは、予想外の収穫と言えよう。
角幡唯介は、頭がよい。「空白の五マイル」での、あのトリッキーですらある全体の構成を見れば、それは先刻ご承知のことと思うが。加えて、極めて饒舌な人である。それは、本書にもよく現れている。このふたつが、これまでの冒険家・探検家と言われた人々と、大きく違うところなのだ。
その<いまどき>の冒険家にとって、冒険や探検は、以前のものとは違った種類の、極めて困難な試みであり、かつまた、あくまでも私的なレヴェルで展開されてこそ成立する事柄である。そして職業としてノンフィクション作家と兼務することには、ある種の胡散臭さがつきまとうというもの言いには、なるほどと納得するところが大である(それを具体的に書いてしまえば、本書の骨格のあらかたを言ってしまうことになるので、あえて抽象的な表現にとどめておこう)。
この本の<肝>は、多少とも自虐的に、饒舌ゆえにかなり丁寧に、自らを解剖して見せた、まさにその部分にある、と見たのだが…。
それでも、8本のエッセイの最後に置かれた<グッバイ・バルーン>では、自らの冒険ではなく、熱気球による太平洋横断を試みて行方不明となった神田道夫氏の、悲壮な出発の情況をレポートして、冒険家・探検家なる存在の根底にある、未知なる領域へと突き進まざるを得ない、どうしようもなさ、厄介さに光をあてて秀逸である。何故ならそれは、角幡氏自身の内深くにあるものと、はっきりとリンクしているのだから。
角幡唯介と彼の書いたものに、多少とも関心を持った人ならば、読んで損はない1冊だろう。ただし感じとしては、フリークライミングを趣味にでもしているような、若い友人のひとりと、表参道あたりのカフェテラスで久しぶりにあって、コーヒーでも飲みながら、これまでのことをあれこれ聴いているといった、あくまでも軽い、気楽なのりなのだ。それも決して、悪くはない。そんな時間は、角幡氏にも、読む人たちにも、ほっと一息つける時なのだから。
角幡唯介は、頭がよい。「空白の五マイル」での、あのトリッキーですらある全体の構成を見れば、それは先刻ご承知のことと思うが。加えて、極めて饒舌な人である。それは、本書にもよく現れている。このふたつが、これまでの冒険家・探検家と言われた人々と、大きく違うところなのだ。
その<いまどき>の冒険家にとって、冒険や探検は、以前のものとは違った種類の、極めて困難な試みであり、かつまた、あくまでも私的なレヴェルで展開されてこそ成立する事柄である。そして職業としてノンフィクション作家と兼務することには、ある種の胡散臭さがつきまとうというもの言いには、なるほどと納得するところが大である(それを具体的に書いてしまえば、本書の骨格のあらかたを言ってしまうことになるので、あえて抽象的な表現にとどめておこう)。
この本の<肝>は、多少とも自虐的に、饒舌ゆえにかなり丁寧に、自らを解剖して見せた、まさにその部分にある、と見たのだが…。
それでも、8本のエッセイの最後に置かれた<グッバイ・バルーン>では、自らの冒険ではなく、熱気球による太平洋横断を試みて行方不明となった神田道夫氏の、悲壮な出発の情況をレポートして、冒険家・探検家なる存在の根底にある、未知なる領域へと突き進まざるを得ない、どうしようもなさ、厄介さに光をあてて秀逸である。何故ならそれは、角幡氏自身の内深くにあるものと、はっきりとリンクしているのだから。
角幡唯介と彼の書いたものに、多少とも関心を持った人ならば、読んで損はない1冊だろう。ただし感じとしては、フリークライミングを趣味にでもしているような、若い友人のひとりと、表参道あたりのカフェテラスで久しぶりにあって、コーヒーでも飲みながら、これまでのことをあれこれ聴いているといった、あくまでも軽い、気楽なのりなのだ。それも決して、悪くはない。そんな時間は、角幡氏にも、読む人たちにも、ほっと一息つける時なのだから。