豊臣秀頼 (歴史文化ライブラリー) の感想
参照データ
タイトル | 豊臣秀頼 (歴史文化ライブラリー) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 福田 千鶴 |
販売元 | 吉川弘文館 |
JANコード | 9784642057875 |
カテゴリ | » 本 » ジャンル別 » ノンフィクション |
購入者の感想
豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼は歴史上有名な存在でありながらその実像はほとんど知られていない。大坂冬の陣・夏の陣
において為すすべなく敗れ、自害に追い込まれた惰弱な凡君というイメージが広く流布してきた。またその生母淀殿も淫乱
かつ愚かな悪女とされてきた。これらのイメージは勝者である徳川幕府のプロパガンダによるものであることは言うまでもな
い。本書はそうした秀頼と淀殿の負のイメージを取り払い、より正確な実像に迫ることを目的とした評伝である。
秀頼はその出生から負のイメージが付きまとっていた。小柄で風采のあがらなかった秀吉に比べ、秀頼は身長197cmという
堂々たる体格の偉丈夫であった。このため、秀頼は秀吉の実子ではなく、淀殿と別の男との不倫によって生まれた子だと噂
されてきた。しかし著者福田氏は同時代の資料を徹底的に調べ上げ、この噂を否定する。秀頼は豊臣家の世継ぎとして大変
大事にされ重んじられたことを実証していく。また、生母淀殿は単なる側室の一人ではなく、北政所と並ぶもう一人の正室であ
ったことも明らかにしていく。淀殿のことを「淀君」と侮蔑的な名で呼び、側室扱いしたのは江戸時代になってからの資料による
ものだが、もちろんそこには徳川幕府の意向があったことはいうまでもない。なお、秀頼の体格については母方からの遺伝、と
いうことで説明がつく。祖父浅井長政・祖母お市の方・生母淀殿、いずれも当時としては希に見る長身であった。
秀吉死後、関ヶ原の戦いを経て天下の主導権は家康へと移っていく。豊臣家は大坂一帯を治めるだけの一大名に転落した、と
いうのがこれまでの常識であった。しかし秀頼は右大臣という高位に上ってゆき、関白任官まで窺うまでになっていた。豊臣家は
依然として天下人としての家格を保っており、秀頼は成長するにつれ天下人への地歩を固めていたと福田氏は指摘する。そして
有名な二条城での秀頼と家康の対面。これは単なるセレモニー的な対面ではなく、老いた天下人家康と、若き天下人候補秀頼と
において為すすべなく敗れ、自害に追い込まれた惰弱な凡君というイメージが広く流布してきた。またその生母淀殿も淫乱
かつ愚かな悪女とされてきた。これらのイメージは勝者である徳川幕府のプロパガンダによるものであることは言うまでもな
い。本書はそうした秀頼と淀殿の負のイメージを取り払い、より正確な実像に迫ることを目的とした評伝である。
秀頼はその出生から負のイメージが付きまとっていた。小柄で風采のあがらなかった秀吉に比べ、秀頼は身長197cmという
堂々たる体格の偉丈夫であった。このため、秀頼は秀吉の実子ではなく、淀殿と別の男との不倫によって生まれた子だと噂
されてきた。しかし著者福田氏は同時代の資料を徹底的に調べ上げ、この噂を否定する。秀頼は豊臣家の世継ぎとして大変
大事にされ重んじられたことを実証していく。また、生母淀殿は単なる側室の一人ではなく、北政所と並ぶもう一人の正室であ
ったことも明らかにしていく。淀殿のことを「淀君」と侮蔑的な名で呼び、側室扱いしたのは江戸時代になってからの資料による
ものだが、もちろんそこには徳川幕府の意向があったことはいうまでもない。なお、秀頼の体格については母方からの遺伝、と
いうことで説明がつく。祖父浅井長政・祖母お市の方・生母淀殿、いずれも当時としては希に見る長身であった。
秀吉死後、関ヶ原の戦いを経て天下の主導権は家康へと移っていく。豊臣家は大坂一帯を治めるだけの一大名に転落した、と
いうのがこれまでの常識であった。しかし秀頼は右大臣という高位に上ってゆき、関白任官まで窺うまでになっていた。豊臣家は
依然として天下人としての家格を保っており、秀頼は成長するにつれ天下人への地歩を固めていたと福田氏は指摘する。そして
有名な二条城での秀頼と家康の対面。これは単なるセレモニー的な対面ではなく、老いた天下人家康と、若き天下人候補秀頼と