江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫) の感想
参照データ
タイトル | 江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 田中 優子 |
販売元 | 筑摩書房 |
JANコード | 9784480080073 |
カテゴリ | ジャンル別 » 文学・評論 » 評論・文学研究 » 文学理論 |
購入者の感想
”きんからかわ”という不思議な存在から始まり、少しだけ”鰻”に寄り道をする。
そして、金唐革の偽物を作ろうとした平賀源内から、田中が”連”と呼ぶネットワークによって、18世紀の江戸時代が蘇る。
江戸時代は、鎖国していたというイメージが強いが、長崎を通じてヨーロッパと、そして中国とつながっていた。
そうして国内に入った情報は、俳諧というネットワークを通じて、日本中に配信された。
その中心にいたのが、平賀源内だった、と田中は、実に様々なトピックを紹介しながら、立証していく。
中国の『水滸伝』が日本に入ると、日本人独自の思想を加えながら、実に様々な別バージョンの物語が展開する。
表紙の春信の浮世絵は、まるで、自分の想像力で、江戸時代にダイブしている、田中を表現しているようだ。
とにかく、楽しく、知的好奇心を絶えず良さぶられる。
本を読む楽しさを、改めて教えてくれる。
そして、金唐革の偽物を作ろうとした平賀源内から、田中が”連”と呼ぶネットワークによって、18世紀の江戸時代が蘇る。
江戸時代は、鎖国していたというイメージが強いが、長崎を通じてヨーロッパと、そして中国とつながっていた。
そうして国内に入った情報は、俳諧というネットワークを通じて、日本中に配信された。
その中心にいたのが、平賀源内だった、と田中は、実に様々なトピックを紹介しながら、立証していく。
中国の『水滸伝』が日本に入ると、日本人独自の思想を加えながら、実に様々な別バージョンの物語が展開する。
表紙の春信の浮世絵は、まるで、自分の想像力で、江戸時代にダイブしている、田中を表現しているようだ。
とにかく、楽しく、知的好奇心を絶えず良さぶられる。
本を読む楽しさを、改めて教えてくれる。
江戸時代とは世界中の近世と呼ばれる時代においてもまれに見るような長い間平和が続いた時代でした。そして外国文化と本格的交わりを持つことが庶民レベルでも可能になるほどの文化的・精神的・時間的・経済的余裕がある時代でもあり、数々の「江戸」らしい文化や芸術が生み出されました。にもかかわらず現代にはその面影はほとんど見えてきません。。これはなぜなのでしょうか。
ここで重要なことは『歴史は重層的である』という認識であり事実であるということです。
想像力とは相対化であり揺らぎであり列挙であり変化であり交わりなのかもしれません。
そう考えると現代企業が目指す「管理」や「制御」が可能なレベルにおいて創造力は生まれ得ないだろう。生産管理の方法として「シックスシグマ」という優れた管理ツールがあるが、まさに現代企業はなるべく変動要因を減らし、誰が行っても一定以上の結果が出るような細かい管理を行って品質管理をしている。これはこれで素晴らしいことで日本の真似は世界でもなかなか出来ないほどのレベルの高さにあるわけだが、一方で日本ではカローラは作れても絶対にフェラーリが作れないのもまた事実である。
どちらか一方ということではなく、どちらも兼ね備えていなくてはならないのが今の世の中で、そうするためには「組織」というモノを改めて見つめなおす必要が出てくると思います。そんなときに江戸時代や近世の歴史から学べる教訓は予想以上に大きいのではないでしょうか。
ここで重要なことは『歴史は重層的である』という認識であり事実であるということです。
想像力とは相対化であり揺らぎであり列挙であり変化であり交わりなのかもしれません。
そう考えると現代企業が目指す「管理」や「制御」が可能なレベルにおいて創造力は生まれ得ないだろう。生産管理の方法として「シックスシグマ」という優れた管理ツールがあるが、まさに現代企業はなるべく変動要因を減らし、誰が行っても一定以上の結果が出るような細かい管理を行って品質管理をしている。これはこれで素晴らしいことで日本の真似は世界でもなかなか出来ないほどのレベルの高さにあるわけだが、一方で日本ではカローラは作れても絶対にフェラーリが作れないのもまた事実である。
どちらか一方ということではなく、どちらも兼ね備えていなくてはならないのが今の世の中で、そうするためには「組織」というモノを改めて見つめなおす必要が出てくると思います。そんなときに江戸時代や近世の歴史から学べる教訓は予想以上に大きいのではないでしょうか。