合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3) の感想
参照データ
タイトル | 合理的な神秘主義‾生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 安冨 歩 |
販売元 | 青灯社 |
JANコード | 9784862280640 |
カテゴリ | ジャンル別 » 人文・思想 » 哲学・思想 » 哲学 |
購入者の感想
どんな本かと1文で紹介してみるなら、「我々が生きられることそのものを”神秘”ととらえ、それを阻害しているものを明らかにし、それを解除するための学問的な戦略を「合理的な神秘主義」と定義し、世界中の偉大な思想家たちの系譜を追いながらその目的達成の手がかりを探っている本」と言えます。
第一部では、「近代西欧のあらゆる学問はデカルト/ニュートンを本流とし、スピノザ/ホイヘンスを伏流として形成されていて、時々後者が吹き出して新しい流れをつくり出した」という見方でもって、古今東西の多数の大物思想家の中でも、特にスピノザを要としています。
大まかに言えば、古代の聖人の思想を中世の革新的な思想家が再解釈したものを、近代の哲学者たちが論理的に書き記そうとする試み・苦悩の連続が描かれています。そして現代のコンピューターや資本主義が生まれたきっかけは、この苦悩の副産物であることがわかります。
「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」「神秘は神秘である」「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」などなど、”神秘”について様々な記述方法で紹介しているのも見所です。
また、本書の執筆から数年以内に安冨さん自身が実は自分は女性(トランスジェンダー)だったと自覚することになりますが、この本の執筆の過程がその萌芽となっていると読み取れる部分が、第二部の中にたくさん見つけられるのも面白いところですね。
第一部では、「近代西欧のあらゆる学問はデカルト/ニュートンを本流とし、スピノザ/ホイヘンスを伏流として形成されていて、時々後者が吹き出して新しい流れをつくり出した」という見方でもって、古今東西の多数の大物思想家の中でも、特にスピノザを要としています。
大まかに言えば、古代の聖人の思想を中世の革新的な思想家が再解釈したものを、近代の哲学者たちが論理的に書き記そうとする試み・苦悩の連続が描かれています。そして現代のコンピューターや資本主義が生まれたきっかけは、この苦悩の副産物であることがわかります。
「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」「神秘は神秘である」「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」などなど、”神秘”について様々な記述方法で紹介しているのも見所です。
また、本書の執筆から数年以内に安冨さん自身が実は自分は女性(トランスジェンダー)だったと自覚することになりますが、この本の執筆の過程がその萌芽となっていると読み取れる部分が、第二部の中にたくさん見つけられるのも面白いところですね。
あまりに複雑な世界に生きることを余儀なくされた人間は
世界を合理的に理解することを熱望し、それゆえに魂本来の自由な働きを抑圧してしまう。
しかし本来、世界や他者は完全に合理的に理解できるものではなく、
どこかで私たちは神秘的な跳躍をしなければならない。
そのために必要なのは盲目的に合理主義を徹底することではなく、
世界・他者と同調し、そして世界と自分を一つのシステムとして作動させることである。
これを著者は「魂の脱植民地化」と呼ぶ。
本書は古今東西の思想を伏流のように貫く魂の脱植民地化の系譜を描き出した刺激的な力作である。
「魂の脱植民地化」はポストモダンのような「反合理主義」ではなく、
合理的思考を尊重しながらも、しかし合理主義の限界を自覚することである。
そのことは著者がラッセルや前期ウィトゲンシュタインのような
西洋における合理主義的伝統のラスボス的人物をキーパーソンとして取り上げていることによく現れている。
極めて独特の視点から書かれ、非常に大胆な解釈や仮説が含まれている本書は
専門的な哲学者・哲学史家の多くからは評価されないかもしれない。
しかし純粋に学問的な興味以上のものとして哲学をとらえている人には訴えかけるものがあるだろう。
これは人間が「生きるため」の思想史であり、専門家が「食っていくため」の思想史ではない。
世界を合理的に理解することを熱望し、それゆえに魂本来の自由な働きを抑圧してしまう。
しかし本来、世界や他者は完全に合理的に理解できるものではなく、
どこかで私たちは神秘的な跳躍をしなければならない。
そのために必要なのは盲目的に合理主義を徹底することではなく、
世界・他者と同調し、そして世界と自分を一つのシステムとして作動させることである。
これを著者は「魂の脱植民地化」と呼ぶ。
本書は古今東西の思想を伏流のように貫く魂の脱植民地化の系譜を描き出した刺激的な力作である。
「魂の脱植民地化」はポストモダンのような「反合理主義」ではなく、
合理的思考を尊重しながらも、しかし合理主義の限界を自覚することである。
そのことは著者がラッセルや前期ウィトゲンシュタインのような
西洋における合理主義的伝統のラスボス的人物をキーパーソンとして取り上げていることによく現れている。
極めて独特の視点から書かれ、非常に大胆な解釈や仮説が含まれている本書は
専門的な哲学者・哲学史家の多くからは評価されないかもしれない。
しかし純粋に学問的な興味以上のものとして哲学をとらえている人には訴えかけるものがあるだろう。
これは人間が「生きるため」の思想史であり、専門家が「食っていくため」の思想史ではない。