江戸の貧民 (文春新書) の感想
参照データ
タイトル | 江戸の貧民 (文春新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 塩見 鮮一郎 |
販売元 | 文藝春秋 |
JANコード | 9784166609925 |
カテゴリ | 歴史・地理 » 日本史 » 一般 » 日本史一般 |
購入者の感想
「穢れ」という概念がある。
死体に触れると「穢れ」る。穢れた人が他の「家」に行くとその家も穢れる。穢れは伝染すると思っていたらしい。
「武士」は戦場に出れば穢れる。そのことにコンプレックスを持っていた彼らは、自分たちが「権力」を持つと同時に
穢れを引き受ける人達を別に作り「身分制度」の外に切り離してしまった。
本書に登場する弾左衛門はその頂点にいる人である。
大名屋敷の様な巨大な屋敷に住み、「身分外」身分の人達の裁判権まで持っている。
江戸の社会は「身分制度」の内側にいる人と外側にいる人との二重構造になっているらしい。
つまり、時代劇に出てくる江戸時代は(どの程度正確かは別にして)実態とは程遠いのだ。
牛馬を解体している人の方が栄養状態が良く、農民が赤子を「間引き」しなければ生きていけなかったこともあったらしい。
それが、憎悪につながった。
江戸の街では定職につかなくても生きていけたのだ。
托鉢の真似をして「お布施」をもらえばよい。
「吉原」は、ポップカルチャーの発信地であり、同時に犯罪の温床である。
本書は「士農工商」の範疇に入る、いわゆる「良民」以外の人々の生活に目を向けている。
これが実に多種多様なのだ。
江戸の庶民の生活の実態に触れてみたい方はぜひ一読していただきたい。
死体に触れると「穢れ」る。穢れた人が他の「家」に行くとその家も穢れる。穢れは伝染すると思っていたらしい。
「武士」は戦場に出れば穢れる。そのことにコンプレックスを持っていた彼らは、自分たちが「権力」を持つと同時に
穢れを引き受ける人達を別に作り「身分制度」の外に切り離してしまった。
本書に登場する弾左衛門はその頂点にいる人である。
大名屋敷の様な巨大な屋敷に住み、「身分外」身分の人達の裁判権まで持っている。
江戸の社会は「身分制度」の内側にいる人と外側にいる人との二重構造になっているらしい。
つまり、時代劇に出てくる江戸時代は(どの程度正確かは別にして)実態とは程遠いのだ。
牛馬を解体している人の方が栄養状態が良く、農民が赤子を「間引き」しなければ生きていけなかったこともあったらしい。
それが、憎悪につながった。
江戸の街では定職につかなくても生きていけたのだ。
托鉢の真似をして「お布施」をもらえばよい。
「吉原」は、ポップカルチャーの発信地であり、同時に犯罪の温床である。
本書は「士農工商」の範疇に入る、いわゆる「良民」以外の人々の生活に目を向けている。
これが実に多種多様なのだ。
江戸の庶民の生活の実態に触れてみたい方はぜひ一読していただきたい。
「得がたい不思議な世界、世界のどこにもない社会」
それがほんとうの江戸だと「まえがき」で著者は書く。
え!? 江戸ってそんなにユニークなの!? 私たちが知っているつもりの江戸とは違うの!?
そう思うのなら、ぜひこの本をひも解いてもらいたい。
私たちが知っているのは、せいぜい武士と武士にからむ町人たちの江戸であって、江戸のごく一部を切り取って見ているにすぎない。
江戸は、もっともっと豊饒な世界だ。
豊饒とは、清濁併せ呑んだという意味で、著者も「美醜、貧富、賢愚、開閉、豪柔、浄穢などが複雑にいりまじって」と書いている。「身分外身分の存在が江戸という社会を、さらにユニークなものにしている。そこまで視野をひろげないと、時代の全体像をえがけない」とも書いている。
この本は、江戸にタイムトリップして、浅草弾左衛門や車善七、乞胸頭山本仁太夫に、江戸の町を案内してもらうというスタイルで書かれている。
彼らにガイドされながら「江戸の貧民」たちの生活を眺め、歴史的背景などの説明を受けることになる。
トリップを終えてふと「現代の貧民」の有り様を見ると、いかに薄ら寒い状況にあるかがよくわかる、という仕掛けも最後に用意されている。
私たちは、来たるべき未来についてのイメージが明確に描き切れないまま、自己責任的競争社会に放り込まれているが、本当にそれで良いのだろうか。
未来が描けないのは、過去をきちんと見つめてこなかったからではないか。
明治維新期に社会が激変したとき、早急に切り取って歴史の闇に埋没させてしまったもの。
それらを切り捨てて、近代150年を突っ走ってきたが、ほんとうにこれでよかったのか。
最後にそんなことをいつも考えさせられるのが、近年の著者の本の特徴でもある。
それがほんとうの江戸だと「まえがき」で著者は書く。
え!? 江戸ってそんなにユニークなの!? 私たちが知っているつもりの江戸とは違うの!?
そう思うのなら、ぜひこの本をひも解いてもらいたい。
私たちが知っているのは、せいぜい武士と武士にからむ町人たちの江戸であって、江戸のごく一部を切り取って見ているにすぎない。
江戸は、もっともっと豊饒な世界だ。
豊饒とは、清濁併せ呑んだという意味で、著者も「美醜、貧富、賢愚、開閉、豪柔、浄穢などが複雑にいりまじって」と書いている。「身分外身分の存在が江戸という社会を、さらにユニークなものにしている。そこまで視野をひろげないと、時代の全体像をえがけない」とも書いている。
この本は、江戸にタイムトリップして、浅草弾左衛門や車善七、乞胸頭山本仁太夫に、江戸の町を案内してもらうというスタイルで書かれている。
彼らにガイドされながら「江戸の貧民」たちの生活を眺め、歴史的背景などの説明を受けることになる。
トリップを終えてふと「現代の貧民」の有り様を見ると、いかに薄ら寒い状況にあるかがよくわかる、という仕掛けも最後に用意されている。
私たちは、来たるべき未来についてのイメージが明確に描き切れないまま、自己責任的競争社会に放り込まれているが、本当にそれで良いのだろうか。
未来が描けないのは、過去をきちんと見つめてこなかったからではないか。
明治維新期に社会が激変したとき、早急に切り取って歴史の闇に埋没させてしまったもの。
それらを切り捨てて、近代150年を突っ走ってきたが、ほんとうにこれでよかったのか。
最後にそんなことをいつも考えさせられるのが、近年の著者の本の特徴でもある。