ダーキニーやシャクティは、仏母准胝観世音の比喩と同じ
第1部の理解には、
著者が言う「論理的な議論を追いやり、
概念を放棄してしまうこと(p.28)」が必要と感じ、
著者の言葉だけに集中してノートを取った。
すると、
仏法修行は既成の論理や概念の放擲から始まることを禅風に述べた法話だと分かった。
それは、
“カルマの種を蒔くことから逃れる唯一の方法は、
瞑想の実践である。
瞑想の実践には、
純粋な空白をもたらし、
そしていかなる概念によってもカルマ的状況を育むことはないという特殊な性質がある。
(p.81)”という言葉でも明らかである。
禅風の法話という印象は、
第2部の“空性体験のピークが「禅の悟り」というものだと思う。
空性のピークにおいて、
真の空性をみる。
そこで、
あなたの論理は摩滅する。
論理もなく、
論理の対象もなく、
あなたは完全に非実在性、
もしくは充満性に曝される。
これが、
突如として自分がただ一人であることを見通す「悟り」の体験だ。
(p.159)”を読んで納得できた。


さて、
本書を読み始めた理由は、
チベット密教の「ダーキニー」とは釈尊の教法の何が発端か?という疑問の解決にあった。
第2部の“空性はまた女性的原理の面から説明されて、
すべてのブッダの配偶者であると言われる。
プラジュニャーもまた女性的原理の面から説明されて、
すべてのブッダの母である―まさしくこの悟りという理念を生み出したから―と言われる。
しかし、
ブッダをして語らせ、
人々との交流をもたらす[配偶者である]女性は、
空性です。
(p.151)”を読んで、
「仏母准胝観世音」を連想した。
仏母とは、
凡夫を悟りに導いて数限りない仏(阿羅漢)を誕生させたブッダ釈尊を意味する。
そこから仏母は、
釈尊の「法(教え)」および「般若波羅蜜(智慧)」も比喩するようになった。

後者の仏母は、
釈尊の教法(四聖諦とそれを体得する「出入息念経」の四念処の修行法など)を表す。
そう考えれば、
チベット密教のシャクティやダーキニーは仏母の比喩と考えられるから、
タンカに描かれた仏が抱擁している妃とは『三十七菩提分法』の比喩と見なすべきである。
当時のチベットで、
そこまで種明かしをすれば、
「痛み」に耐えられる僧侶はいないであろう。
そう考えればツォンカパの妥協も理解できる。
叡智に従うならば、
やはり釈尊の教法に戻るべきと思われる。
心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄

その他の感想

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