極上の三文小説

ドイツ潜水艦の魚雷によって沈没した豪華客船ルシタニア号の救命ボートから、
イギリス政府が転覆するほどの重要機密文書とともにJane Fin (フカヒレ・ジェーン)という変な名前の女の子が失踪する。
消えた機密文書と少女を追って、
悪の秘密結社を率いる謎のボスミスター・ブラウンを向こうに回し、
若いトミーとタペンスがハラハラどきどきの大活躍をします。
ヒッチコックが「マクガフィン」についてコロンビア大学で講義したのが1939年らしいけれど、
1922年に発表された本書でアガサ・クリスティはヒッチコック的な「マクガフィン（ここでは「消えた機密文書」）」を縦横に駆使して、
冒険スパイ・サスペンスを盛り上げている。
誰だ、
クリスティにサスペンスは書けないなんて言ったのは。


ミステリとサスペンスを無理やり分離しようとするのは野暮だと思うし、
これを読むと若いアガサ・クリスティはハナッカラそんなことお構いなしに、
謎解きとスリルとサスペンスをごった煮にして最上の娯楽作品を書いていたんだなあ、
ということが良く分かる。
日ごろミステリを読み慣れた人なら、
ミスター・ブラウンの正体が途中で分かってしまうかも知れないが、
騙しの女王のプロットはふんだんに捻りが利いていて、
たとえ犯人の目星が付いたとしても、
最後まで緊張感が持続し全く飽きさせない。
本文中に「like a dime novel（三文小説・ワンコイン小説みたい）」と自嘲的な表現があるけれど、
本書は犯人当てパズルに堕した無味乾燥なミステリとは一線を画する、
良質のエンターテイメントに仕上がっている。
極上の三文小説（dime novel, pulp fiction）。