階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ の感想
参照データ
タイトル | 階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 苅谷 剛彦 |
販売元 | 有信堂高文社 |
JANコード | 9784842085258 |
カテゴリ | ジャンル別 » 人文・思想 » 教育学 » 一般 |
購入者の感想
凄まじい名著。教育のなかにどのような格差、階層差が生まれているのか。早い段階から私立校で英才教育を受ける子供たち。学級崩壊する学校でやる気を失っていく子供たち。その違いは何であり、どこから生まれたのか。本書は教育における格差問題を扱う。その扱い方は徹底して科学的だ。つまり、調査結果に基づく統計データを様々に利用し、議論を組み立てていく。この議論は極めて説得的である。もちろん、それは著者の見解がすべて正しいことを意味するわけではないが。
本書は教育における格差問題を、統計データによって定量的に明らかにした。だが本書の価値はそれに尽きない。もう一つの論点は、そのような格差を見えなくしてきたものは何か、という問いだ。教育に関する我々の理解を問う、メタ的な視点である。これを巡り、著者は日教組の全国集会の記録を丹念にたどっていく。この文献学的視点は、驚くべきものだ。個人的にはここに魅力を一番感じた。
著者によれば、我々は次のような時代を生きている。戦後、主に農民層が教育を受けられるようになった。こうして(ほとんど)誰もが高等教育まで受けられる、大衆教育社会が生まれた。このことは、本来背後に存在しているはずの格差を見えなくした。かくして、教育の問題とは、実際の格差(階層、人種、性別等)に基づく差別ではなくなった。そうではなく、個人の能力に基づいて個人を序列づける、能力主義が教育問題となった。社会階層の裏付けを持たないことの差別は、<差別感>の問題というように、感情の問題になってしまった。差別感を持たせることがすでに差別であるから、そのような差別感について論じること自体が差別感を持たせる。かくして、教育論議から学問的議論は消失したのだ。
だが、議論が消失しても格差は消えるわけではない。誰に対しても平等に処遇する、という日本の奇妙な「処遇の平等」。これは機会の平等でも結果の平等でもない。それが証拠に、処遇の平等の背景で、できる人は優秀な私立校へと「逃げていく」。著者の言う「ブライト・フライト(優等生の逃避)」が起こっている。かくして、処遇の平等を求めることは、実際の処遇の差をますます深めていく結果になるのだ。皮肉な結果である。
本書は教育における格差問題を、統計データによって定量的に明らかにした。だが本書の価値はそれに尽きない。もう一つの論点は、そのような格差を見えなくしてきたものは何か、という問いだ。教育に関する我々の理解を問う、メタ的な視点である。これを巡り、著者は日教組の全国集会の記録を丹念にたどっていく。この文献学的視点は、驚くべきものだ。個人的にはここに魅力を一番感じた。
著者によれば、我々は次のような時代を生きている。戦後、主に農民層が教育を受けられるようになった。こうして(ほとんど)誰もが高等教育まで受けられる、大衆教育社会が生まれた。このことは、本来背後に存在しているはずの格差を見えなくした。かくして、教育の問題とは、実際の格差(階層、人種、性別等)に基づく差別ではなくなった。そうではなく、個人の能力に基づいて個人を序列づける、能力主義が教育問題となった。社会階層の裏付けを持たないことの差別は、<差別感>の問題というように、感情の問題になってしまった。差別感を持たせることがすでに差別であるから、そのような差別感について論じること自体が差別感を持たせる。かくして、教育論議から学問的議論は消失したのだ。
だが、議論が消失しても格差は消えるわけではない。誰に対しても平等に処遇する、という日本の奇妙な「処遇の平等」。これは機会の平等でも結果の平等でもない。それが証拠に、処遇の平等の背景で、できる人は優秀な私立校へと「逃げていく」。著者の言う「ブライト・フライト(優等生の逃避)」が起こっている。かくして、処遇の平等を求めることは、実際の処遇の差をますます深めていく結果になるのだ。皮肉な結果である。