新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫) の感想
参照データ
タイトル | 新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 鷲田 清一 |
販売元 | 筑摩書房 |
JANコード | 9784480092700 |
カテゴリ | 本 » ジャンル別 » 文学・評論 » エッセー・随筆 |
購入者の感想
1995年に起きた、阪神・淡路大震災と1997年の神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)の前後に書かれた文章を中心に構成されていますが、新編(文庫版)を編むにあたり、比較的新しめの文章が収められています。具体的には、1993年から2008年までの文章が収められています。
この本には70編もの鷲田氏の文章が収められています。中には20年以上も前に書かれたものもあるので、時代を感じさせる記述があります。しかし、やわらかい文体と鋭敏な切り口で紡ぎだされた、様々なテーマに対する深い考察は、まったく色褪せていません。
「からだの変容」や「食生活」、そして「対人関係」をテーマにした文章に、私はとりわけ膝を打ち首肯しました。私たちはさらなる利便性を追求し、生活の水準をより高次的なものにしようとしていますが、その行為によって、私たちが考えている以上に、私たちのからだはその負担を背負っています。たとえば食生活を見ても、かつては「共食」であった食事が「分食」となり「個食」となりました(「コンビニという文化」)。携帯電話に関する言及もこの本の中でたびたび取り上げられますが、この出現により、パブリックとプライヴェートとの境界線がきわめて曖昧になりました。このような生活体系や意識の変化は、私たちのからだに大きな影響を与えているのだ、そう氏は警鐘を鳴らしています。
「ひとはじぶんの生命(いのち)をみずから創りだしたわけではない。(中略)少なくともこのわたしの身体は、私だけのものではない。ということは、この生命はわたしだけが決しうるものではないし、決すべきものでもない」(「身体はだれものものか?」)との言葉は私たちがじゅうぶんに認識すべきものではないか、そう考えさせられます。
氏の卓越した慧眼をじゅうぶんに味わえる、価値ある一冊です。
この本には70編もの鷲田氏の文章が収められています。中には20年以上も前に書かれたものもあるので、時代を感じさせる記述があります。しかし、やわらかい文体と鋭敏な切り口で紡ぎだされた、様々なテーマに対する深い考察は、まったく色褪せていません。
「からだの変容」や「食生活」、そして「対人関係」をテーマにした文章に、私はとりわけ膝を打ち首肯しました。私たちはさらなる利便性を追求し、生活の水準をより高次的なものにしようとしていますが、その行為によって、私たちが考えている以上に、私たちのからだはその負担を背負っています。たとえば食生活を見ても、かつては「共食」であった食事が「分食」となり「個食」となりました(「コンビニという文化」)。携帯電話に関する言及もこの本の中でたびたび取り上げられますが、この出現により、パブリックとプライヴェートとの境界線がきわめて曖昧になりました。このような生活体系や意識の変化は、私たちのからだに大きな影響を与えているのだ、そう氏は警鐘を鳴らしています。
「ひとはじぶんの生命(いのち)をみずから創りだしたわけではない。(中略)少なくともこのわたしの身体は、私だけのものではない。ということは、この生命はわたしだけが決しうるものではないし、決すべきものでもない」(「身体はだれものものか?」)との言葉は私たちがじゅうぶんに認識すべきものではないか、そう考えさせられます。
氏の卓越した慧眼をじゅうぶんに味わえる、価値ある一冊です。