宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源 (ノンフィクション単行本) の感想
参照データ
タイトル | 宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源 (ノンフィクション単行本) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 佐藤 優 |
販売元 | KADOKAWA/角川書店 |
JANコード | 9784041107362 |
カテゴリ | 人文・思想 » 宗教 » キリスト教・ユダヤ教 » キリスト教一般 |
購入者の感想
本書において佐藤さんは、イエスを教会の頭としないで、ローマ法王=ローマ教皇を頭とするカトリック教会が、聖書及び原始キリスト教に背反することを論証されているだけにとどまらず、チェコのフスによる第一次宗教改革がやがて、チェコの民族意識を形成していく過程と、フスの宗教改革が当時のカトリック教会=中世社会(従って破門は社会からの排除、教皇と枢機卿が権威と教会を通じた社会の支配を行い、厳格な民族国家による区別や国民意識はまだ未発達、無自覚の時代)における人間性の回復過程を、原始キリスト教=真のプロテスタンティズム、つまり聖書を唯一の権威とし、教皇と枢機卿による世界各地の目に見える普遍的(カトリック的な)な教会を通じた搾取階級の社会支配の構造体制への偉大な革命的な、世界史的な革新運動として見事に再現しここに描写されている。ルターやカルバンによる後の宗教改革へと発展していくが、本書ではフスとイギリスのウィクリフまでが叙述される。
ただし、エンゲルスは、主にルターの宗教改革期のミュンツアーのドイツ農民戦争を19世紀の社会主義運動の契機としている点は本書で言及されていない。しかし、イエスが当時のローマ帝国における革命思想の担い手であり、今も不滅の世界社会主義運動の先祖であることを承認しているし、一連の宗教改革が、後のルターの世俗的な反動への変質だけでなく、後の社会主義運動へと肯定的に転化変転していったことは歴史の史実である。本書は、以上のことを全て論証している。
宗教改革の歴史を知る事は、現在と未来の社会史における社会運動の大文脈を読み解く上で必要不可欠である。真の革命家達は、無神論であっても宗教改革を研究し、自分たちのルーツや共通性を見いだしている。単に宗教論=形而上学=神学として本書に対しては、無益である。あくまで歴史書として読解されるべきである。前近代をしることが脱近代や近代そのものを理解する唯一の思索の道である。
本書において宗教と民族意識の誕生に関して、秀逸極まる佐藤さんの結論的な概括箇所を引用する。
ただし、エンゲルスは、主にルターの宗教改革期のミュンツアーのドイツ農民戦争を19世紀の社会主義運動の契機としている点は本書で言及されていない。しかし、イエスが当時のローマ帝国における革命思想の担い手であり、今も不滅の世界社会主義運動の先祖であることを承認しているし、一連の宗教改革が、後のルターの世俗的な反動への変質だけでなく、後の社会主義運動へと肯定的に転化変転していったことは歴史の史実である。本書は、以上のことを全て論証している。
宗教改革の歴史を知る事は、現在と未来の社会史における社会運動の大文脈を読み解く上で必要不可欠である。真の革命家達は、無神論であっても宗教改革を研究し、自分たちのルーツや共通性を見いだしている。単に宗教論=形而上学=神学として本書に対しては、無益である。あくまで歴史書として読解されるべきである。前近代をしることが脱近代や近代そのものを理解する唯一の思索の道である。
本書において宗教と民族意識の誕生に関して、秀逸極まる佐藤さんの結論的な概括箇所を引用する。
とても感動した。宗教改革がどのようなものであったのか、はじめて腹の底から納得できた。今後どのような書物で宗教改革のことを学んだとしても、佐藤氏が本書で示した理解をくつがえすようなことは、まずあり得ないと思う。
副題にあるとおり、宗教改革こそが、近代・民族・国家の起源である、ということが納得できる。そしてナショナリズムの起源であるということも。
もちろん話題の中心は神学である。平易であるとは言いがたいが、だからこそ、キリストとはなにか、教会とはなにか、信仰とはなにか、カトリックとプロテスタントの違いはなにか、といった疑問が、じわじわと、あるいは電光石火に、解けてゆく。(むかし神学関連の本を数冊苦労して読んだわりには納得できるものが少なかったが、本書の場合、努力が報われたと心底思える。)
信仰とはなにか、ということを感得したあとで、最終章および長いあとがきにおける、沖縄のナショナリズム、カトリック教会の対イスラムおよび中国戦略についての佐藤氏の分析を読むと、その問題点が、重大な問題点が、くっきりとした輪郭をもって理解できる。
本書を読むことで知識が豊富になることも間違いないが、もっとも重要なことは、本書には読者に多大な活力を与える力がある、ということだ。佐藤優氏の活力の源泉はここにあり、その源泉ゆえに読者もまた「目には見えない」活力を得る。異教徒たる私たちに向けて、わかりやすく読めるようにとの最大限の努力が結実している。
私は、はじめてここで、本当のキリスト者を見た。
引用されている「ヨハネによる福音書」を読みながら、ああ、きっと佐藤氏のお母さんは、ここから、まさる、という名前をとったのだろうなあ、と勝手に想像しながら…。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝(まさ)っている。」(三六七頁)
副題にあるとおり、宗教改革こそが、近代・民族・国家の起源である、ということが納得できる。そしてナショナリズムの起源であるということも。
もちろん話題の中心は神学である。平易であるとは言いがたいが、だからこそ、キリストとはなにか、教会とはなにか、信仰とはなにか、カトリックとプロテスタントの違いはなにか、といった疑問が、じわじわと、あるいは電光石火に、解けてゆく。(むかし神学関連の本を数冊苦労して読んだわりには納得できるものが少なかったが、本書の場合、努力が報われたと心底思える。)
信仰とはなにか、ということを感得したあとで、最終章および長いあとがきにおける、沖縄のナショナリズム、カトリック教会の対イスラムおよび中国戦略についての佐藤氏の分析を読むと、その問題点が、重大な問題点が、くっきりとした輪郭をもって理解できる。
本書を読むことで知識が豊富になることも間違いないが、もっとも重要なことは、本書には読者に多大な活力を与える力がある、ということだ。佐藤優氏の活力の源泉はここにあり、その源泉ゆえに読者もまた「目には見えない」活力を得る。異教徒たる私たちに向けて、わかりやすく読めるようにとの最大限の努力が結実している。
私は、はじめてここで、本当のキリスト者を見た。
引用されている「ヨハネによる福音書」を読みながら、ああ、きっと佐藤氏のお母さんは、ここから、まさる、という名前をとったのだろうなあ、と勝手に想像しながら…。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝(まさ)っている。」(三六七頁)