書経 上 新釈漢文大系 (25) の感想
参照データ
タイトル | 書経 上 新釈漢文大系 (25) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 加藤 常賢 |
販売元 | 明治書院 |
JANコード | 9784625570254 |
カテゴリ | ジャンル別 » 語学・辞事典・年鑑 » 中国語 » 文法・語法 |
購入者の感想
日本における碩学である加藤常賢氏の、研究の集大成と言えるのが本書である。
まず、「曰若」についてであるが、氏は「曰若」を巫祝の一つであると見ており、そのことは氏の論文「『王曰若』考」(『中国古代文化の研究』所収)で詳細に述べられており、氏独特の見解であるといえる。同論文は本書の解説にも紹介されており、本来は本書の元となった『真古文尚書集釈』に同時に付されていたことは明確となっており、見ようと思えば、容易に見られる。(国会図書館などを用いれば非常に容易に見られるのである。)この見解は、トンデモ説と言うことは、その論文を読めば不可能であることは明らかであり、卓見の一つと言うことができよう。
他者の説を一応挙げるならば、「若」字は「惟」字に通じ、「曰」もまた同字に通じており、訓読するならば「これ」とするのが楊イン如の説であり、集英社全釈漢文大系を著した池田末利氏はこの説をとる。これ以外にも説はある。反射的には「ごとし」、あるいは「かくのごとく」と読むことを考えるが、『書経』尭典の冒頭を見れば非であることは明白である。
「曰若稽古帝堯曰放勳欽明文思」というものであり、かりに「かくのごとくいわく」と読んだ場合、明らかに読みに詰まることが分かる。詳細にここを論ずる気はないが、中国学に足を踏み入れたことがあれば、「かくのごとく」と読んだ場合の無理に一瞬で気が付くはずである。無論、「かくのごとく」と読むこと自体を否定しているわけではなく、「かくのごとく」とも読もうとすれば読めないこともない。しかし、他の可能性を考慮に入れた場合、「かくのごとく」と読む人は居ないであろう。
また、正確には通釈、つまり解釈を含む訳は少し難しめである。それは、原書が出版された年代を考えればそれほどおかしくもないし、むしろ、現在二十をこえたばかりのわたしでも理解できる、少し難しめな現代日本語でしかない。
まず、「曰若」についてであるが、氏は「曰若」を巫祝の一つであると見ており、そのことは氏の論文「『王曰若』考」(『中国古代文化の研究』所収)で詳細に述べられており、氏独特の見解であるといえる。同論文は本書の解説にも紹介されており、本来は本書の元となった『真古文尚書集釈』に同時に付されていたことは明確となっており、見ようと思えば、容易に見られる。(国会図書館などを用いれば非常に容易に見られるのである。)この見解は、トンデモ説と言うことは、その論文を読めば不可能であることは明らかであり、卓見の一つと言うことができよう。
他者の説を一応挙げるならば、「若」字は「惟」字に通じ、「曰」もまた同字に通じており、訓読するならば「これ」とするのが楊イン如の説であり、集英社全釈漢文大系を著した池田末利氏はこの説をとる。これ以外にも説はある。反射的には「ごとし」、あるいは「かくのごとく」と読むことを考えるが、『書経』尭典の冒頭を見れば非であることは明白である。
「曰若稽古帝堯曰放勳欽明文思」というものであり、かりに「かくのごとくいわく」と読んだ場合、明らかに読みに詰まることが分かる。詳細にここを論ずる気はないが、中国学に足を踏み入れたことがあれば、「かくのごとく」と読んだ場合の無理に一瞬で気が付くはずである。無論、「かくのごとく」と読むこと自体を否定しているわけではなく、「かくのごとく」とも読もうとすれば読めないこともない。しかし、他の可能性を考慮に入れた場合、「かくのごとく」と読む人は居ないであろう。
また、正確には通釈、つまり解釈を含む訳は少し難しめである。それは、原書が出版された年代を考えればそれほどおかしくもないし、むしろ、現在二十をこえたばかりのわたしでも理解できる、少し難しめな現代日本語でしかない。