幕末 維新の暗号(下) 群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか (祥伝社文庫) の感想

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タイトル幕末 維新の暗号(下) 群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか (祥伝社文庫)
発売日2011-06-09
製作者加治 将一
販売元祥伝社
JANコード9784396336882
カテゴリジャンル別 » ノンフィクション » 歴史・地理・旅行記 » 歴史

購入者の感想

毛利家は、北朝に敗れた南朝の子孫を匿っていた。
昔から宮家・公家を囲うのは、大名の習わしであった。
いざという時の、「玉」として領地に囲っておくのである。
水戸藩の「玉」は、有栖川宮であった。

戊辰戦争では、薩長が孝明天皇の子、睦仁を幕府から奪った。
「玉」を奪われた反薩長{奥羽越同盟)側は、北白川宮能久を東武皇帝として立てた。
幕末の土壇場で日本は、東と西が互いに天皇を立て真っ二つに分かれたのである。

実際は、睦仁は大室寅之祐にすり替わった。睦仁は、亡きものにされた。
西郷は、菊池(南朝の武将)の末裔である。南洲の南は、南朝の南である。
長州の桂小五郎は、囁いた。長州は、南朝の血を引く大室寅之祐を「玉」として囲っていると。
西郷は、ある時は菊池源吾と名乗り長男は寅太郎と命名している。

明治政府は、公卿(調停に仕える高級役人)及び諸候(一万人以上の藩主)を華族とした。そして、華族を東京に住まわせ反乱の芽を摘んだ。
華族を天皇の藩塀としたのである。
時代は、北朝天皇から南朝天皇となったのである。
幕末最後の孝明天皇は、ひたすら外国嫌いであった。
倒幕開国を目指す薩長そして英国にとっては、邪魔以外の何ものでもなかった。
当時の時勢は、危機打開のため南朝天皇を担ぐ倒幕思想があった。
フルベッキ写真は、薩長同盟そのものである。
以上が、明治天皇すり替え説である。
すり替え説は、複数の人が主張しているが、著者の確かな史眼に裏打ちされた説明は、外連味がなく無理がない。
寅之助の出身地山口県「多布施」は、伊藤博文・岸信介・佐藤栄作・宮本顕治・北村さよの出身地である。これは、恐るべきことである。
歴史とは、支配者たちの見解が一致した寓話であろう。

「え、本当」「そうだったのか」という指摘のオンパレードで、一気読みの一冊でした。「大室寅之祐=明治天皇」説の真偽は評者には証明できる由もありませんが、この一書を読む限りではそれが歴史の真実なのではと考えざるを得ませんでした。(特に、276〜279頁の筆跡を見る限り、睦仁親王と「明治天皇」のそれとが全く別人のものであることは明らかではないのか。)

「南朝天皇の子孫は、ひそかに吉野を抜け、長州に落ち延び。それ以降は長州、毛利家の庇護の元にあった。それが大室家でな」(115頁)。
「田中が見つけたのは、共に男爵になった三家族の氏名だ。新田家、菊池家、名和家である」(124頁)。
「伊藤博文はあの辺に住んでいたんです。」「えっ?」「生まれも育ちも、熊毛郡束荷村ですよ」(211頁)。
「フルベッキ写真の子は、明治天皇でほとんど間違いないと思っていますが」・・・「その子が、大室寅之祐だという証拠がどこにもない」(307頁)。

それにしても、フルベッキ写真の対角線上のちょうど中央に彼の姿があることを示す図(78頁)を見たときは吃驚しました。(切り方によっては勿論変わりはしますが、にしても・・・)なお、一点244〜245頁の記述を見る限りでは、何故中岡慎太郎が自らが創設した陸援隊の配下(十津川郷士)に殺害されなければならなかったのか、疑問であるように思いました。

いずれにせよ、本書を読んで歴史を見る際の想像力(あるいは暴露力)が大いに養われたように思います。事実はもちろん大事ですが、自由な発見(推理)が可能なのもまた歴史の醍醐味と云えましょう。

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