川端康成と東山魁夷―響きあう美の世界 の感想
参照データ
タイトル | 川端康成と東山魁夷―響きあう美の世界 |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 川端 香男里 |
販売元 | 求龍堂 |
JANコード | 9784763006431 |
カテゴリ | » 本 » ジャンル別 » 文学・評論 |
購入者の感想
「文豪と画家の交流」という言葉に惹かれて、何の芸術的素養もない私だが、ふっとこの本を手に取った。
美しい。何よりもそれが一番の感想だ。カラーで印刷されている数々の絵画・美術品。川端と東山の往復書簡も、現物の写真が合わせて掲載されている。息をのんで見つめてしまった。まるで展覧会を見ているような、思わず背筋を伸ばして、頁をめくる指先が慎重になるような、格調高い一冊だった。
第一章は、二人の交流を示す往復書簡。第二章には、東山魁夷の作品の数々。第三章は、川端が所蔵していた他の美術品の数々。その後に、さらに詳しい解説である。
まず、往復書簡がよい。この二人の関係は、純粋に「美」を追求する者同士の、偽りのない、親愛溢れる魂の触れ合いの結晶だ。裏の思惑や媚などは一切感じられない。二人の付き合いは純粋で誠実で、その点、読んでいて本当に美しい。
川端康成と東山魁夷。二人の交友関係は、1955年から1972年に川端が亡くなるまでの17年間続いた。東山は川端の本の装丁をした縁で川端邸を訪れ、川端の美術コレクションを見せてもらい、以来、家族ぐるみの交流が始まる。川端は東山の作品を絶賛し、その画集に心のこもった序文を書いた。その文章は、決して表面的なお世辞のようなものではなく、川端が心から東山作品に魂を揺さぶられ、魅せられていたことがわかる。川端は、東山に、今のうちに京都を書いて欲しい、京都の姿はやがて消えるかもしれないと伝え、それがきっかけで東山の「京洛四季」が生まれる。川端がまず文化勲章、その後にノーベル賞を受賞した際には、東山は自身の作品を贈っている。東山が川端の新聞小説の挿絵を描いた時に、そのうちの数編はまず東山が絵を描き、あとから川端が小説を書いた、というエピソードも、二人の信頼関係を示すものだ。
美しい。何よりもそれが一番の感想だ。カラーで印刷されている数々の絵画・美術品。川端と東山の往復書簡も、現物の写真が合わせて掲載されている。息をのんで見つめてしまった。まるで展覧会を見ているような、思わず背筋を伸ばして、頁をめくる指先が慎重になるような、格調高い一冊だった。
第一章は、二人の交流を示す往復書簡。第二章には、東山魁夷の作品の数々。第三章は、川端が所蔵していた他の美術品の数々。その後に、さらに詳しい解説である。
まず、往復書簡がよい。この二人の関係は、純粋に「美」を追求する者同士の、偽りのない、親愛溢れる魂の触れ合いの結晶だ。裏の思惑や媚などは一切感じられない。二人の付き合いは純粋で誠実で、その点、読んでいて本当に美しい。
川端康成と東山魁夷。二人の交友関係は、1955年から1972年に川端が亡くなるまでの17年間続いた。東山は川端の本の装丁をした縁で川端邸を訪れ、川端の美術コレクションを見せてもらい、以来、家族ぐるみの交流が始まる。川端は東山の作品を絶賛し、その画集に心のこもった序文を書いた。その文章は、決して表面的なお世辞のようなものではなく、川端が心から東山作品に魂を揺さぶられ、魅せられていたことがわかる。川端は、東山に、今のうちに京都を書いて欲しい、京都の姿はやがて消えるかもしれないと伝え、それがきっかけで東山の「京洛四季」が生まれる。川端がまず文化勲章、その後にノーベル賞を受賞した際には、東山は自身の作品を贈っている。東山が川端の新聞小説の挿絵を描いた時に、そのうちの数編はまず東山が絵を描き、あとから川端が小説を書いた、というエピソードも、二人の信頼関係を示すものだ。