日本文学100年の名作第6巻1964-1973 ベトナム姐ちゃん (新潮文庫) の感想
参照データ
タイトル | 日本文学100年の名作第6巻1964-1973 ベトナム姐ちゃん (新潮文庫) |
発売日 | 2015-01-28 |
販売元 | 新潮社 |
JANコード | 9784101274379 |
カテゴリ | ジャンル別 » 文学・評論 » 文芸作品 » 日本文学 |
購入者の感想
日本文学セレクト中短編集の第六巻。1964年から1974年に発表された中短編12編をセレクト。この時代になると既読の作品が増えた。戦後を経て、高度経済成長期の真っ只中、幻想的な作品、戦中を省みる作品、平穏な日常を描いた作品が目立つ。
川端康成『片腕』。『眠れる美女』のようなフェティシズムの香りがする幻想的な物語である。ある娘から片腕を借りた私…読み進むうちに異常な情景が見えてくるようだ。
大江健三郎『空の怪物アグイー』。既読の作品。これも、また幻想的な物語。現実と虚構の狭間で苦しむかのように生きる作曲家D。彼に雇われた『ぼく』は次第に彼に影響されていく…
司馬遼太郎『倉敷の若旦那』。寓話的な時代小説。倉敷の町人志士の若旦那が有ろう事か長州藩士となり、倉敷を襲う事になるのだが…短編であるのが、勿体無いくらい面白い。
和田誠『おさる日記』。これも既読の作品であった。小学校低学年の男の子が綴った日記形式のショート・ショートである。読み進みながら、どうなるのかという期待感を感じ、見事なオチにヤられたと思った。
木山捷平『軽石』。どこかホッとするような柔らかな日常を描いた私小説。この感じはどこかで読んだことがあると、思い出してみると、谷口ジローの『歩くひと』であった。
野坂昭如『ベトナム姐ちゃん』。これも既読。退廃的で哀しい物語。横須賀のドブ板通りのバーのホステス、弥栄子がベトナム帰りの米兵に愛情を注ぐ理由は…
小松左京『くだんのはは』。これも既読。一時期 、小松左京の作品にハマった時期があるが、その中でも記憶に残る作品。終戦間際を舞台にしたホラー小説。なかなか正体が分からぬ中で感じる恐怖と興味、『くだん』の正体を知った時の恐怖、そして、ラストの恐怖と読者を釘付けにする見事な構成の作品である。
陳舜臣『幻の百花双瞳』。冒頭で刑事の取り調べを受ける主人公の丁祥道…コック見習いの丁祥道の成長を描きながら、同時に進行する『百花双瞳』という幻の点心を巡るミステリーとサスペンス。面白い。
川端康成『片腕』。『眠れる美女』のようなフェティシズムの香りがする幻想的な物語である。ある娘から片腕を借りた私…読み進むうちに異常な情景が見えてくるようだ。
大江健三郎『空の怪物アグイー』。既読の作品。これも、また幻想的な物語。現実と虚構の狭間で苦しむかのように生きる作曲家D。彼に雇われた『ぼく』は次第に彼に影響されていく…
司馬遼太郎『倉敷の若旦那』。寓話的な時代小説。倉敷の町人志士の若旦那が有ろう事か長州藩士となり、倉敷を襲う事になるのだが…短編であるのが、勿体無いくらい面白い。
和田誠『おさる日記』。これも既読の作品であった。小学校低学年の男の子が綴った日記形式のショート・ショートである。読み進みながら、どうなるのかという期待感を感じ、見事なオチにヤられたと思った。
木山捷平『軽石』。どこかホッとするような柔らかな日常を描いた私小説。この感じはどこかで読んだことがあると、思い出してみると、谷口ジローの『歩くひと』であった。
野坂昭如『ベトナム姐ちゃん』。これも既読。退廃的で哀しい物語。横須賀のドブ板通りのバーのホステス、弥栄子がベトナム帰りの米兵に愛情を注ぐ理由は…
小松左京『くだんのはは』。これも既読。一時期 、小松左京の作品にハマった時期があるが、その中でも記憶に残る作品。終戦間際を舞台にしたホラー小説。なかなか正体が分からぬ中で感じる恐怖と興味、『くだん』の正体を知った時の恐怖、そして、ラストの恐怖と読者を釘付けにする見事な構成の作品である。
陳舜臣『幻の百花双瞳』。冒頭で刑事の取り調べを受ける主人公の丁祥道…コック見習いの丁祥道の成長を描きながら、同時に進行する『百花双瞳』という幻の点心を巡るミステリーとサスペンス。面白い。
今巻の収録作は、どの小説も、昭和39年から48年までに発表されました。川端康成、大江健三郎、司馬遼太郎、池波正太郎、陳舜臣…。高度経済成長に沸く日本らしく、今も読み継がれる大物たちが華々しく名を連ねています。
女の片腕との甘く幻想的な一夜を描く「片腕」(川端)、
喪った幼子の幻影を大空に見いだす音楽家が悲しい「空の怪物アグイー」(大江)、
誰よりもきまじめでありすぎた町人志士の悲喜劇「倉敷の若旦那」(司馬)、
女よりも猫を愛する風変わりな大工の15年ぶりの復縁がほんわかとする「お千代」(池波)。
どれも佳品ですが、私は大家ぞろいのこの巻に木山捷平と古山高麗雄という、地味ながら見事な戦記文学を書いた二人を入れた選者の見識に敬意を表したいと思います。
木山捷平は戦後の満州での苦難に満ちた暮らしを描いた「大陸の細道」が傑作。この「軽石」は戦記物ではなく、作品世界は本当にたわいがない。ある日、主人公がクズ屋に釘を売ったところ、代金はたったの3円。せめて「何か長持ちがするようなもの」を買おうと、町に出た主人公はあれこれ探しまわった末、雑貨屋で見かけた軽石を3円で買う。ただそれだけの、飄々と書かれた暮らしぶりが良い味を出しています。
日常のどんな小さなことでも見逃さない書きぶりに作者の人生観が伺えます。平凡なこと、平凡な暮らしをおくれることこそ幸福なのだということを戦争から学んだのでしょう。
古山高麗雄の「蟻の自由」は、南方へ出征した作者とおぼしき主人公が死んだ妹に語りかける形をとった書簡体の小説です。「蟻」のように瓶に入れられてあっちこっちと戦場を移動し、運が尽きれば「蟻」のように死んでいく仲間たち。反戦イデオロギーに堕すことなく、地べたから見つめた兵士たちの生態が悲しいです。
他に、主人公の、少年らしい含羞がみずみずしい「球の行方」(安岡章太郎)、職場から疎外されたカメラマンが、諫早の河口で鳥たちと交感する日々を硬質な文章で描いた「鳥たちの河口」(野呂邦暢)などが掲載。
女の片腕との甘く幻想的な一夜を描く「片腕」(川端)、
喪った幼子の幻影を大空に見いだす音楽家が悲しい「空の怪物アグイー」(大江)、
誰よりもきまじめでありすぎた町人志士の悲喜劇「倉敷の若旦那」(司馬)、
女よりも猫を愛する風変わりな大工の15年ぶりの復縁がほんわかとする「お千代」(池波)。
どれも佳品ですが、私は大家ぞろいのこの巻に木山捷平と古山高麗雄という、地味ながら見事な戦記文学を書いた二人を入れた選者の見識に敬意を表したいと思います。
木山捷平は戦後の満州での苦難に満ちた暮らしを描いた「大陸の細道」が傑作。この「軽石」は戦記物ではなく、作品世界は本当にたわいがない。ある日、主人公がクズ屋に釘を売ったところ、代金はたったの3円。せめて「何か長持ちがするようなもの」を買おうと、町に出た主人公はあれこれ探しまわった末、雑貨屋で見かけた軽石を3円で買う。ただそれだけの、飄々と書かれた暮らしぶりが良い味を出しています。
日常のどんな小さなことでも見逃さない書きぶりに作者の人生観が伺えます。平凡なこと、平凡な暮らしをおくれることこそ幸福なのだということを戦争から学んだのでしょう。
古山高麗雄の「蟻の自由」は、南方へ出征した作者とおぼしき主人公が死んだ妹に語りかける形をとった書簡体の小説です。「蟻」のように瓶に入れられてあっちこっちと戦場を移動し、運が尽きれば「蟻」のように死んでいく仲間たち。反戦イデオロギーに堕すことなく、地べたから見つめた兵士たちの生態が悲しいです。
他に、主人公の、少年らしい含羞がみずみずしい「球の行方」(安岡章太郎)、職場から疎外されたカメラマンが、諫早の河口で鳥たちと交感する日々を硬質な文章で描いた「鳥たちの河口」(野呂邦暢)などが掲載。