「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3 の感想
参照データ
タイトル | 「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3 |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 高橋 源一郎 |
販売元 | 文藝春秋 |
JANコード | 9784163901800 |
カテゴリ | ジャンル別 » 文学・評論 » 評論・文学研究 » 文学理論 |
購入者の感想
いつもの源一郎節ではあるが、ひさしぶりに面白かった。
著者の文学論には一定のパターンがある。
まず、現在、マイナーな作品を紹介すること。
そして、いわゆる「文学」に対して疑問をつきつけること。
本書では「僕」が「読めなくなった」ことをもって、「文学」に対する疑問符としている。
さらに、いわゆる「物語」に回収されない「小説」がどこかに存在することを匂わせることだ。
これまで著者はよく性(エロ)を武器として用いていたのだが、本書では自制を反映して死(戦争)を道具にしている。
それによって読者の範囲が広がったことが、本書を良作にしている。
著者の文学論には一定のパターンがある。
まず、現在、マイナーな作品を紹介すること。
そして、いわゆる「文学」に対して疑問をつきつけること。
本書では「僕」が「読めなくなった」ことをもって、「文学」に対する疑問符としている。
さらに、いわゆる「物語」に回収されない「小説」がどこかに存在することを匂わせることだ。
これまで著者はよく性(エロ)を武器として用いていたのだが、本書では自制を反映して死(戦争)を道具にしている。
それによって読者の範囲が広がったことが、本書を良作にしている。
「王様は裸だ‥‥」
裸の王様にそう叫んだは、たしか子どもだった。
「子どもよりも親が大事」
これは『桜桃』での太宰のコトバ。
でも、ワタシ、「大人の眼よりも、子どもの眼の方が信用できる」を推したいな‥‥誰のコトバだっけ‥‥まぁ、いいや。
そんな事よりも何よりも、ワタシ、チョット、イラッとしてるの‥‥
文学が書けないなら辞めちゃえばいいの‥‥そうでしょ?、タイ・カップだって、打てなくなったから辞めたんだって‥‥別に羞ずかしいことじゃないよ。
燻ってる‥‥になって‥‥マグマになって‥‥ドッガーーーン‥‥怒ったよ、ワタシ‥‥まくしたてるよ、ワタシ‥‥ウォォォ!!
あのなぁ!
バカも休み休み言えよ(憑依‥‥ナニカガヒョウイシタワタシ)!
黙って聴いてりゃぁいい気になりやがって!
えぇ
書きながら批評するってのはなぁ、サッカーでいやぁ、PKでキッカーとゴールキーパーの両方を一人でしてみせますってなもんだッ‥‥できるもんならやってみやがれってんだッ!
文学、文学、ウルセーんだ。
そっちの文学は彼岸過ぎからずっと留守じゃねぇーか。紅い花なんかどこにも咲いてねぇーじゃねーか、えぇ
そっちに文学なんて無いのさ。
こっちの水が甘いのさ。
気づいてるくせに知らないフリしやがって、えぇ、そういうのをなぁ、大人っていうんだ、何?、子どもだぁ?、大人には文学が書けないってか‥‥分かってるじゃねぇーか、だったら実存主義的に訊いてやらぁ、「肥えてる子どもに文学は可能か?」、ってな。
ありもしない文学性を担保(補完ではない‥‥アッ‥‥アレ‥‥落ちつく‥‥ダンダンオチツイテキタワタシ)するために、表紙絵にヘンリー・ダーガーなんか使いやがって!
刺身にケチャップなんかかけやがって‥‥
‥‥もういいか‥‥もういいや‥‥チョットだけ‥‥スッキリしたし‥‥
こないだ五歳の弟がね、『尿する裸僧』のポスター見て言ったの‥‥
裸の王様にそう叫んだは、たしか子どもだった。
「子どもよりも親が大事」
これは『桜桃』での太宰のコトバ。
でも、ワタシ、「大人の眼よりも、子どもの眼の方が信用できる」を推したいな‥‥誰のコトバだっけ‥‥まぁ、いいや。
そんな事よりも何よりも、ワタシ、チョット、イラッとしてるの‥‥
文学が書けないなら辞めちゃえばいいの‥‥そうでしょ?、タイ・カップだって、打てなくなったから辞めたんだって‥‥別に羞ずかしいことじゃないよ。
燻ってる‥‥になって‥‥マグマになって‥‥ドッガーーーン‥‥怒ったよ、ワタシ‥‥まくしたてるよ、ワタシ‥‥ウォォォ!!
あのなぁ!
バカも休み休み言えよ(憑依‥‥ナニカガヒョウイシタワタシ)!
黙って聴いてりゃぁいい気になりやがって!
えぇ
書きながら批評するってのはなぁ、サッカーでいやぁ、PKでキッカーとゴールキーパーの両方を一人でしてみせますってなもんだッ‥‥できるもんならやってみやがれってんだッ!
文学、文学、ウルセーんだ。
そっちの文学は彼岸過ぎからずっと留守じゃねぇーか。紅い花なんかどこにも咲いてねぇーじゃねーか、えぇ
そっちに文学なんて無いのさ。
こっちの水が甘いのさ。
気づいてるくせに知らないフリしやがって、えぇ、そういうのをなぁ、大人っていうんだ、何?、子どもだぁ?、大人には文学が書けないってか‥‥分かってるじゃねぇーか、だったら実存主義的に訊いてやらぁ、「肥えてる子どもに文学は可能か?」、ってな。
ありもしない文学性を担保(補完ではない‥‥アッ‥‥アレ‥‥落ちつく‥‥ダンダンオチツイテキタワタシ)するために、表紙絵にヘンリー・ダーガーなんか使いやがって!
刺身にケチャップなんかかけやがって‥‥
‥‥もういいか‥‥もういいや‥‥チョットだけ‥‥スッキリしたし‥‥
こないだ五歳の弟がね、『尿する裸僧』のポスター見て言ったの‥‥
これは東日本大震災と福島の原発事故以来、文章を読めなくなった「ぼく」を主人公にした高橋源一郎の最新「小説」です。
「1 読めない」は、「最近、ぼくはおかしい。(中略)なにをどう読んでいいのか、まるでわからない」(p7)と書き出されています。ただしその原因については、まだ触れられません。「2 もっと読めない」では冒頭近くに、「あんなことがおこったものだから」(p19)とあって一歩踏み込んでいますが、「あんなこと」が何かは語られません。「4 読めるものがあったよ」まで来ても、「というわけで、『あの日』から、ぼくは、いろんなものが読めなくなったのだった」(p51)という書き出しで、「あの日」がどの日かは説明されません。
というか、この本を最後まで読んでも、説明はないのです。
でも、「あんなこと」や「あの日」が何を指しているか、誰でも分かるわけです。
実はすでに「1 読めない」の文末に、引用した文章中の「潮が引いている」を「津波で」と補完して読んでしまったというヒントもありますし(p18)、著者には『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(2012.2)って本もありますしね。
だからこれは最初から、ゲームなんですよ。著者が本当に読めなくなったのかどうか、そこは問わない。「あの日」から読めなくなった、という設定の中で、どんな語りが可能になるか? そういう実験として読んだ方がいい。
実際、これを評論とか批評だと思って読んだら、怒っちゃう人も出てくるんじゃないでしょうか。だって話は脱線に脱線を重ねるし、取り上げるといったテーマは延々と先延ばしされて、挙句の果てには途中で放り出されてしまう。ここに何か一貫した思想だとか主張だとか政治的立場だとかを読み取ろうとしても、ま、無理ではないけれども非常に難しい。
「1 読めない」は、「最近、ぼくはおかしい。(中略)なにをどう読んでいいのか、まるでわからない」(p7)と書き出されています。ただしその原因については、まだ触れられません。「2 もっと読めない」では冒頭近くに、「あんなことがおこったものだから」(p19)とあって一歩踏み込んでいますが、「あんなこと」が何かは語られません。「4 読めるものがあったよ」まで来ても、「というわけで、『あの日』から、ぼくは、いろんなものが読めなくなったのだった」(p51)という書き出しで、「あの日」がどの日かは説明されません。
というか、この本を最後まで読んでも、説明はないのです。
でも、「あんなこと」や「あの日」が何を指しているか、誰でも分かるわけです。
実はすでに「1 読めない」の文末に、引用した文章中の「潮が引いている」を「津波で」と補完して読んでしまったというヒントもありますし(p18)、著者には『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(2012.2)って本もありますしね。
だからこれは最初から、ゲームなんですよ。著者が本当に読めなくなったのかどうか、そこは問わない。「あの日」から読めなくなった、という設定の中で、どんな語りが可能になるか? そういう実験として読んだ方がいい。
実際、これを評論とか批評だと思って読んだら、怒っちゃう人も出てくるんじゃないでしょうか。だって話は脱線に脱線を重ねるし、取り上げるといったテーマは延々と先延ばしされて、挙句の果てには途中で放り出されてしまう。ここに何か一貫した思想だとか主張だとか政治的立場だとかを読み取ろうとしても、ま、無理ではないけれども非常に難しい。